海の日の漁司教叙階式

聖堂に氷柱ならぶ叙階式

飲水奨励海の日の叙階式

新司教の上司(大司教)が一足先にローマで枢機卿(カーディナル)に叙任された。

この新枢機卿は俳句マニアである。

枢機卿就任挨拶カード。 枢機卿が被る丸帽子(ズケット カロッタ)は緋色

叙階式開催場所は

大聖堂はカテドラル、ドュオモ、司教座聖堂とも呼ばれる。

大阪教区は大司教区ゆえ、大司教区司教座聖堂となっている。

 

聖堂が建つのは細川ガラシア邸跡。

↑高山右近像

開式1時間前

メインホールは補助席500を含み満席。小ホールや地下ホールや2階席がある。

熱中症対策上、本日に限り聖堂内、式典中の飲水を奨励する案内や字幕がたびたび登場。

今回は、叙階される新司教もまたホトトギス作家で、ワイフの知人でもあるので

カテドラル行事に付き合う。

最前列には、新司教の幼友達でもある稲畑廣太郎氏も参列。

ブログでは、母親ともども参加とあったが、汀子さんの姿は確認できず

 

↓栄光の聖母マリア  壁画

ウィキペディアの堂本印象の解説

 

1910年(明治43年)、京都市立美術工芸学校卒業後西陣織の図案描きの仕事をしていたが、日本画家を志して京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)に入学。1924年(大正13年)京都市立絵画専門学校修了。1919年(大正8年)、帝展初出展作「深草」が入選した。

 

帝展第3回展では「調鞠図」で特選、第6回展に出展した「華厳」は帝国美術院賞を受賞するなど第一級の日本画家として認められた。1936年(昭和11年)京都市立絵画専門学校教授。1944年(昭和19年)7月1日帝室技芸員[1]1950年(昭和25年)日本芸術院会員。1961年(昭和36年)文化勲章1962年(昭和37年)密教学芸賞受章。1975年、心不全のため死去[2]

 

また、私塾東丘社の主催者として、画壇の指導者としても活躍した。

戦後、抽象表現や障壁画の世界にも活躍の場を広げ、国際展覧会に多くの作品を出展するなど国際的にも活躍。1963年(昭和38年)には大阪カテドラル聖マリア大聖堂 に壁画『栄光の聖母マリア』を描いた功績により当時のローマ教皇ヨハネス23世より聖シルベストロ文化第一勲章を受章した。

 

↑1時間前 祭壇では進行リハーサル

↑12分前。入場の最前列組み(侍者)が並び始める

天井が高いので、蒸し風呂状態ではないが、式の途中で体調不良で退席するひともちらほら。

赤ちゃん同伴者は、場内スタッフが早めに退場を促したかも。

 

 

 

 

 

ミトラ着用者は司教たち(全国から参集)。金色のミトラを挟む深紅の丸帽子着用者が、叙階対象者で

式中に新しいミトラを授与される。

後方にも金色ミトラ着用者が見える。多分教皇大使の大司教。

司教はミトラの下に丸帽子(カロッタ)を被っている

↑新カージナル

今日の式典は新枢機卿のお披露目も兼ねている

教皇大使による、二人の新補佐司教任命の教皇からの伝達。

肌の色がやや黒いと思った。帰宅後調べたら、大使はインドのケララ州の生まれ。

有能な人物だったのであろう。司牧の経験はほとんどなく、30歳くらいからは教皇庁(バチカン市国)外務省キャリア組といった

感じの経歴で、すでに駐タンザニア大使を経験している。

 

スペイン人新司教の紋章に日本語が書き込まれている。

挨拶を聞いたが、とびぬけて日本語がうまい。現職はこの司教座聖堂の主任司祭である。

よって司教になっても住み家は変わらない(と思う)。

 

 

 

司式者退場

 

 

 

会場はJR森ノ宮駅近くであったが、初めからワイフに頼まれ、梅田からタクシー利用。

帰りはJR駅まで歩くはずが余りの暑さで城星学院前から流しをひらって阪急梅田迄タクシー

帰りのルートは難波の宮跡を半周するルートだった。

 

式後のパーティ会場で、2リットル入りのミネラル・ウォーターや麦茶を飲んだが帰宅後も

1リットルくらい水とジュースを呑んだ。