散歩と言いながらも、今日は初めてバスに3度乗車。

最初に降りた駅は、次屋2丁目。

 

次屋:(apedia)

小田地区の大字。市域東部に位置する。次屋に中世城郭遺構は発見されていないが、「細川両家記」天文5年(1536)3月20日条(『尼崎市史』第4巻)に登場する次屋の城が史料上の初見と考えられる。戦国時代にはしばしば戦乱の地となった。

 

  近世には1615年(元和元)池田重利の領地となり、1617年(元和3)尼崎藩領1643年(寛永20)尼崎藩より分知された旗本青山氏(幸通系)の知行所となった。

 

村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」に615.45石、「天保郷帳」に639.845石とある。大井組に属した。氏神は伊邪那岐〔いざなぎ〕神社で浜村と立会。ほかに素盞嗚神社があったが19081909年(明治41~42)伊邪那岐神社に合祀された。

 

  1889年以降は小田村1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。19811988年の住居表示により次屋となったほか、一部が下坂部・浜・潮江・西川となった。

 

久々知;

 小田地区の大字。市域中心部やや東に位置する。地名は、杣山の管理にあたった古代氏族・久々智氏の居住地であったことに由来するという説があり、猪名川または武庫川の舟運により上流で切り出された木材が運ばれ、この地域で集積・加工された可能性がある。史料上の初見は1191年(建久2)「観福寺大般若経奥書」(『尼崎市史』第4巻)で久々智村とある。橘御園の荘域に属したほか、下坂部荘に属したとされている。南北朝~戦国時代の争乱に際して、諸将がしばしば陣を構えた。

 

  近世初期には幕府領または大坂城代領大坂定番領

1694年(元禄7)(あるいは1686年・貞享3とも)武蔵国忍藩阿部氏(忠吉系)の領地、

1823年(文政6)幕府領、

1928年ママ(文政11)尼崎藩領となった。(1828年の誤記)

村高は「慶長十年摂津国絵図」「元禄郷帳」「天保郷帳」のいずれにも1,165石とある。

 

大井組に属した。氏神は須佐男神社(近世には久々知妙見)。寺院は真言宗善通寺派円安寺・臨済宗大徳寺派正眼寺・日蓮宗広済寺。広済寺は元来妙見宮の神宮寺であり、近松門左衛門ゆかりの寺院として名高く境内には近松の墓がある。

 

  1889年(明治22)以降は小田村1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。19701981年の住居表示により久々知・久々知西町となったほか、一部が南塚口町・名神町・東塚口町・尾浜町・上坂部・下坂部・若王寺〔なこうじ〕・潮江となった。

 

ここから神崎川を目指す。

私はこの道標で、村の下位概念として町(ちょう)があるのを知った。30戸の集落が村の基本単位であった。

美作の父の里、母の里とも、30戸で村であった。(そして現在も両集落は30戸からなる。一家族の平均構成員が2ないしそれ以下だから

人口は60人弱かも。明治期の合併で村名は小字として残っている。美作市は平成の合併に際して大字となるはずの旧町名を廃して、

住所は市名+小字+番地に統一した。

旧道がどうなっていたかはしらないが、この道しるべはほぼ原の設置場所に置かれている。

左へ行けば、現在のJR尼崎駅の東辺りへ通じる。

安永8年に設置された。

  • 明和9年11月16日グレゴリオ暦1772年12月10日) 改元。後桃園天皇即位のためと、続いて起こった火事風水害が「明和九年(めいわくねん)」すなわち「迷惑年」によるとされたため。ただし、前者については後桃園天皇と同様に中継ぎを挟んで即位した霊元天皇の先例に倣って代始改元を行わなかった(安永改元と新帝即位は無関係)とする記録もある[1][2]
  • 安永10年4月2日(グレゴリオ暦1781年4月25日) 天明に改元

 

安永8年は、1779年の9月か10月に、神崎から久々知を経て塚口→中山・有馬への街道筋であった。

 

この道標は、この場所を通るバスの窓からよく見えるので、何度も見ているが、傍に寄って画像に撮るのは3度目か4度目である。

 

この道が東へ向かっていると思い歩き出す。

右手には一般住宅があるが、左手は大きな工場。(日本亜鉛鍍金尼崎工場)

牡丹臭木

道を南へ取ったために西川八幡神社へ遭遇

タブノキの大木

藩界石

 

 

西川:

 小田地区の大字。市域東部、神崎川の西岸に位置し、中国街道沿いであった。奈良~平安時代の西川遺跡がある。史料上の初見は1605年「慶長十年摂津国絵図」。

 

  近世初期には幕府領

1617年(元和3)尼崎藩領となった。

 

村高は「慶長十年摂津国絵図」に204.615石、「元禄郷帳」に218.393石、「天保郷張」に218.957石とある。また、天和貞享年間(1681~1688)「尼崎領内高・家数・人数・船数等覚」(『地域史研究』第10巻第3号)には家数53軒、人数267人、1788年「天明八年御巡見様御通行御用之留帳」(『地域史研究』第1巻第2号・第3号)に44軒、161人とある。大井組に属した。氏神は八幡神社(近世には八幡宮)で、1915年(大正4)神崎須佐男神社に合祀され1948年(昭和23)旧地に戻った。

  1889年(明治22)以降は小田村1936年(昭和11)以降は尼崎市の大字となった。1988年の住居表示により西川となったほか、一部が常光寺となった。

この神社へも5度以上来ている。藩界石が有名(私だけかも)

神社の近くに、「神崎一心の戦い」の記念碑

ここを紹介なさっているブログに全文の紹介あり。

神崎一心の戦 由緒碑

足利高氏 建武中興の恩賞に不平、反逆して鎌倉に走る

新田義貞 後醍醐天皇より追討の命を受ける

かえって高氏の反撃に遭い、京都へと敗走する

京の都で再び激戦 今度は高氏軍が敗走する

高氏軍 山陰丹波の地を迂回 兵庫に陣を占める。

新田軍と打出の辺りで決戦の運びとなる

楠正成軍 遅れはせながら参加 神崎の辺りから神出鬼没 一心をこめた戦い

法で圧勝 高氏軍は遂に九州へと逃げ延びる

世にこれを神崎一心の戦いという

 

 

背後は公園

 

神崎川

 

 

↑橋は神崎川。川を越えると大阪府大阪市。橋上の道路は大阪に入ると、「十三筋」と呼ばれる。

ということは阪急電車十三駅前に通じているが、途中で2度山陽新幹線の高架を潜る。

そういえば、大坂の北や南から深夜、タクシーで、神崎橋を渡って家に戻ったことが何度もあるのを

思い出した。

 

防潮堤の内部は緑地帯になっている。

 

 

弥生線となっている。弥生ガ丘と、尼崎で唯一「丘」の付く地区を通るからか。阪急園田駅へ通じる。

ここからは土手下の道。

北へ向かっている。

 

ダイセル物流の社屋がみえる。旧大日本セルロイド

 

この辺りから西へ道を取ると、旧神崎の遊郭跡へつながる。

神崎すさのお神社あたりでいくつか道標を見た記憶がある。

その時に見逃した遊女塚を探す。

 

尼崎地域史事典apediaの解説

 

 神崎町の梅ヶ枝公園にある神崎五人遊女塚の墓碑。戦前は神崎川の川岸に近い場所にあったが、再三移転した。

 

寺町如来院の古縁起では、1207年(建永2)3月、法然が讃岐へ遠流のさい、神崎の地で5人の遊女が罪業深きを懺悔し、法然に念仏を授かり入水した。人びとはこれを憐んで遺骸を川岸に葬り遊女塚とした。法然は勅免により同年末讃岐を出て京都へ帰る途中、再び神崎釈迦堂(如来院の前身)において遊女らの菩提をとむらったと伝承されている。

 

この塚については、1697年(元禄10)刊の『国花万葉記』が「上塚、一名傾城塚と云、神ざき村の渡り口より東」と最も早く記し、それより約100年後の寛政期(1796~1798・寛政8~10)に刊行された『摂津名所図会』には、「遊女宮城墓、神崎の北一丁許、田圃の中にあり。村民傾城塚又女郎塚とも呼ぶ。……後世尼崎如来院よりこゝに墓碑を建て、表には六字の名号、裏には遊女五人の名を鐫〔え〕る」と記している。

 

 

この墓碑は、全高212cm、幅120cm、奥行100cmで両側面に「元禄五壬申年」、「正月」の建立時期が刻まれているが、背面に遊女の名が刻まれていた形跡はない。

 

正面の名号の両側には、「弥陀仏と遊女墳も極楽の発心報士(土)の内の春けき」の歌が2行に陰刻されている。上田秋成は晩年、この遊女塚の伝承を遊女宮木を主人公として「宮木が塚」と題して描写し、「春雨物語」に収めている。

 

梅ヶ枝公園↑ 遊女塚は初訪問

遊女塚(ゆうじょづか)は、兵庫県尼崎市神崎町にある遊女墓碑

神崎町の梅ヶ枝公園にある全高212cm・幅120cm・奥行100cmの墓碑で、1692年元禄5年)に建立された。正面の名号南無阿弥陀佛」の両脇には「弥陀仏と遊女墳も極楽の」「発心報士(土)の内の春けき」の歌が2行に分かれて刻銘され、両側面に「元禄五壬申年」「正月」の建立時期が刻まれている。背面には遊女5人の名(吾妻・宮城・刈藻・小倉・大仁[1])が刻まれていたとされるがその形跡はない[注 1][2]

 

側面、裏面の文字など一字も読めない

墓碑が建てられた神崎は、785年延暦4年)に神崎川淀川が結ばれ、瀬戸内海方面から京都に至る船舶が停泊する交通の要衝地となった。次第に河口の港町として繁栄し「天下第一の楽地」と呼ばれるようになる。ここでは遊女たちが今様など諸芸を泊客に披露し、宴遊に興じる人々でにぎわっていた[1]

 

 

如来院の伝承『古縁起』では1207年建永2年)3月、法然讃岐への遠流の途中、神崎で行なった教化により5人の遊女が自らを懺悔念仏を授かり、神崎川入水した。住民はこれを憐んで遺骸を川岸に葬り遊女塚とし、法然は釈迦堂にて回向し讃岐へ旅立つ。同年12月、法然は勅免による京都への帰途、再び釈迦堂において遊女達の菩提を弔ったとされている[2][4]

 

 

その後1697年元禄10年)に刊行された『国花万葉記』には「上塚、一名傾城塚と云、神ざき村の渡り口より東」と外部の文献において最も早く記され、1796年-1798年寛政8-10年)に刊行された『摂津名所図会』には「遊女宮城墓、神崎の北一丁許、田圃の中にあり。村民傾城塚又女郎塚とも呼ぶ。……後世尼崎如来院よりこゝに墓碑を建て、表には六字の名号、裏には遊女五人の名を鐫(え)る」と記されている[2]

 

 

1869年明治2年)、現地の溝に架かる小橋として使用されていたのを村民が発見し修復[5]、神崎の北1余りの田圃の中にあったが、1916年大正5年)5月、大日本セルロイドが土地一帯を買収して工場を建設したため、神崎村の小字寺内村の道路脇に移転された。さらに太平洋戦争以後、道路事情の変化により、現在地に移転している[6]

 

近くにバス停あり。阪神尼崎迄乗り、そこからまた阪急塚口駅行きに乗り換え。よって3度バスに乗車。プリペイカード利用ゆえ、最近は月に2度1000円札チャージしている。

バス停から見た関西ペイント社

バスに頼っているので歩数は8000歩足らず。