岡田邸について書いたついでに・・・、

 

柿衛文庫を御造りになった岡田さん先代は、伊丹市長や聖心女子大の教授(当時は宝塚に聖心女子大の分校(教養課程? 短大部?)があった)

を歴任されたが、同じ教会の信徒だったので、御姿は何度も拝見したことがある。

 

戦後の混乱期、地方にでかけ、酒1升と芭蕉や蕪村の色紙・短冊などとを交換して

柿衛文庫所蔵の資料を収集なさったと周囲の人から聞いたことがある。

 

柿衛文庫のHPより

 

岡田柿衞像

 

 柿衞は伊丹の醸造家で、岡田氏、幼名真三、利兵衞(りへえ)を襲名。京都帝国大学文学部国文科卒業。梅花女子専門学校・聖心女子大学などで教鞭をとるとともに、伊丹町長・市長を務めました。

 郷土の俳人鬼貫(おにつら)に端を発する俳諧資料の収集は、俳諧史全般へと拡大し、学術研究上必要と認めた真蹟や俳書の蓄積を、現在の(財)柿衞文庫に遺します。

 『鬼貫全集』『俳画の美』ほか多数の著書があり、中でも『芭蕉の筆蹟』は芭蕉筆蹟学の礎を築いた名著です。

 

 

 

伊丹氏が築いた伊丹城を拡大整備したのは荒木氏

↑城跡の石碑

 

ウィキペディアの解説

天文4年(1535年)、摂津国池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(よしむら)[1]の嫡男として池田[5]に生まれる。荒木氏は波多野氏の一族とされ[6]、先祖は藤原秀郷である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。

 

最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし、三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り、知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。

 

その後、元亀2年(1571年)8月28日の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)には茨木城主となり、同年、信長が足利義昭を攻めた時にも信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。一方義昭方に属していた池田知正はやがて信長に降って村重の家臣となり、村重が完全に主君の池田家を乗っ取る形となった(下克上)。

 

 

天正2年(1574年)11月15日に摂津国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。

 

翌年には有馬郡の分郡守護であった赤松氏を継承する摂津有馬氏を滅ぼして同郡を平定する。村重は細川政権三好政権を通じての摂津統治の中心であった芥川山城越水城の両城を廃して有岡城(伊丹城の改称)を中心とした新たな支配体制を構築した。以後も信長に従い、越前一向一揆討伐・石山合戦高屋城の戦い天王寺の戦い)や紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。この間、従五位下摂津守に任ぜられる。

 

↑の文末に摂津有馬氏を滅ぼしたとある。

 

同じくウィキペディアの「摂津有馬氏」の項から:

 

明徳2年(1391年)の明徳の乱ののち、赤松則村(円心)の孫で赤松則祐の五男・有馬義祐摂津国有馬郡地頭に補せられ、その地に移り住んだため有馬氏を称した。義祐の子・有馬持家足利義教に側近として仕え、足利義政初期の寵臣として知られる(ただし、義政の寵臣であったのは息子の有馬元家であったとする説もある)。

 

摂津国有馬郡は元々細川氏の力を牽制するために赤松氏が分郡守護になっており[7]、同地を実際に支配していた摂津有馬氏は赤松氏から守護権力を分与された存在と位置づけられ、地頭職(分郡守護)を継承する有馬氏嫡流は当主の発給文書でも「赤松」の名乗りを用いていたが、赤松氏宗家が衰退すると細川氏に接近して有馬郡の支配を維持するようになり、享禄年間以降には当主の文書の名乗りも「有馬」と変えていく。

 

有馬村秀三好長慶の傘下に入り、同氏に従属する国衆として位置づけられていくが[8]織田信長の台頭によって新たに摂津一国の支配を任された荒木村重と対立し、天正3年(1575年)の有馬国秀の自害によって断絶した[9]

 

この有馬氏は赤松有馬氏とも呼ばれるが、

我が祖先の一人が「就職」した有馬氏は、

久留米藩有馬氏であったかも。祖先が就職して「系図」を申請したのは

江戸時代に入ってからである。その時に作成されたものが、残っており、私の家系譜作成の

原資料となっている。

 

 

庶流にあたる有馬重則播磨国美嚢郡に進出し、同族の別所氏やその縁戚の淡河氏と対立した。その子の則頼豊臣秀吉に従い、後に御伽衆に列した。則頼の子豊氏豊臣秀次の家老渡瀬繁詮に仕えていたが、文禄4年(1595年)に繁詮が秀次事件により改易されるとその領地である遠江国横須賀3万石を引き継いで治めた。

 

 

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで有馬父子は東軍に与し、その戦功から則頼は一族の旧領摂津国有馬郡三田藩2万石、豊氏は丹波国福知山藩6万石に封ぜられる。慶長7年(1602年)に則頼が没すると豊氏はその遺領を含め8万石に加増された。その後、大坂の陣においても徳川方として活躍したため、元和6年(1620年)にはさらに加増移封され筑後国久留米藩21万石の藩主となった。家格は大広間詰で、国持大名の扱いを受けた。久留米藩主としての初代は豊氏であるが、「久留米藩有馬家」当主の代数は則頼を初代として数えられる。

 

有岡城址は何回か紹介している。

端的に言えば、何も残っていない。

わずかな礎石と井戸跡くらいしかないので、

勝手知った地元の人は城跡に登ることはない。

 

塚口城を本拠とした信長軍によって破壊されたから。

 

 

↓荒木村重の最後

 

↓のような記念碑がある。

 

城巡りチャンネル  というブログ(2013年9月)に

 

見ることができる碑や跡地のすべてが画像紹介されている。

 

この日も一人の人が画像撮影などをなさっているのみ。

ただしこの人かなり丁寧に見て回っておられたので、この種のブロッガーか

学芸員か。しかし地元の学芸員ならこんな正装ではここへやってこないであろう。