4月11日付け 第3報
今年のショウちゃん一族の先祖祭は4月8日に開催。
あいにくの雨模様のため裏山の祠の前ではなく、
屋内での挙行。
祠にもっとも近い家はMrs K宅故、Mrs K宅に11時前に到着。
もっとも一族の講であれなんであれ、今や当番家を巡回することはなく、
もっぱらK宅が利用されているよう。
↑会が終わってから、若宮の木碑などを戻す作業を覗きに、祠のある場所に登った折に撮影。写っているのは昨年からこの祀りに参加し始めた新入り。居住地は奈良。
尼崎に住む私、備前市からの参加者以外は、地の人々(祠は見えないが安置場所を視野に入れることができるところに居住)
↓庭に4台
集落用の共同集会室も(今は利用されなくなったが)半鐘台もなにもかも
K宅前にあり、どうやら巡回のコープの移動販売店(トラック)もK宅の庭で営業されているよう。
ご先祖さんは、1689年にこの地へ移住してきた。320年以上前。その前は、今では高速道路の美作インターを降りて湯郷温泉へ向かう市内屈指の幹線沿いに(地名の特定はできても
場所は分からない。)住んでいたようである。
なぜ引っ越したのかが分からない。引っ越すまでの数代(7代?)が引っ越しを繰り返していたのかどうかも分からないが、その数代(7代?)の前に政行(衛門)なる人物がいて、
この人は(私から数えると15代くらい前の人物だが)毛利藩に仕えていたようである。
秀吉の命で、毛利藩が朝鮮へ出兵した折には、撤退途中功績があったらしく感状と
太刀一振りを貰っている。
この毛利藩士は、関が原の戦いに参加。もちろん負け組。翌日あたりに傷病死している。
小早川さんの必死の嘆願で
大将の処刑は免れるものの、江戸への幽閉生活を強いられ、領地は半減以下となって、
政行の子供の処遇はどうなったのであろうか。
親族が播磨か美作にいてそこで蟄居したかどうか?生活の資は?
そのあたりのことが全然わからないので従兄から託された家系譜の作成は、
ワープロで100ページほどのものを50部ほど作成した段階で止まったまま20年。
床の間に向かって正座したのは10分ほど。
その時、祠の中の書入れに明治10年のものがあるというので、
先祖祭も100年以上続いていることになる。
越してきて320余年だから明治以前からやっていたかも。
きろろガーデン
ムスカリが最盛期↑
アカンサス 都会の家の庭には植え付け不可能。↓
URACafe は多肉ルーム、ないし多肉容器製作場ないし多肉整形場に変わっている。
あたらしく気付いたのは、UraCafeのあるきろろガーデン以外に、Tihiro ガーデンができていたこと。