最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔、多宝塔、層塔などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。
相輪の下には露盤と階段状の刻み(普通は6段)を持つ笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)あるいは「耳」と呼ばれる突起がある。笠の下面も階段状(2段)に刻む。笠の下の四角柱の部分は、塔身(とうしん)という。その下の部分は基礎と呼ばれ、上部を階段状(2段)に刻んで塔身を受ける。隅飾の内側の曲線を二弧ないし三弧に刻むものもあり、またその側面に月輪を陽刻し、その中に種子(しゅじ、種子字とも)を刻むものもある。
塔身にはしばしば仏坐像や月輪に囲われた種子を刻む。手の込んだものではその月輪をさらに蓮華座で受ける。また基礎の四方の側面には区画の中に格狭間(こうざま)を一個刻む例が多い。さらに基礎石の下に格狭間を伴った反花座を置くものもある(太字=↑図参照)。なお特に高位者の墓塔では壇上積みの石段を伴うものがある(醍醐三宝院墓地宝篋印塔など)。
宝篋印塔残欠は、尼崎市内でも何か所かで見かける。
↑もその残欠のよう。
鎌倉時代に盛んに作られたようだが、↑の擦れた案内文によれば、
この残欠は「おそらく1520年頃のもの」らしい。
16世紀20年代は戦国時代である。この地では、塚口御坊が繁栄していたころである。
宝篋印塔こつと打つたる椿の実 野澤節子
打ちたるの誤植か?
後思案:「打ったる」であろう。 ?付き文、訂正。
塚口御坊の、今では住宅密集地の中に辻地蔵と共に保管されている。
apedia(ネット上の尼崎郷土史辞典)の「塚口御坊」の解説
尼崎地方の一向一揆の中心的役割を担った御坊。
「興正寺塚口別院由緒」(立花志稿)によると、興正派の有力御坊は42坊あり、1468年(応仁2)の細川勝元と山名持豊の戦いでは、広根村(川辺郡猪名川町)最徳寺、多田村(川西市)光遍寺、箕輪村(豊中市)超光寺の3か寺が摂津国三門と称し、とくに別院として塚口御坊を警護した。
同坊は、川辺郡・豊島〔てしま〕郡・能勢郡の末寺や道場を組織する一向一揆の中心となっていたのである。
この塚口御坊には寺内町が形成され、町の周囲にかつて築かれていた土塁と周濠の一部が現存し、当時の面影がうかがえる。戦国時代の確かな末寺数は明らかでない。
この背後はゴミ袋の集合地になっている。
尼崎市内では宝篋印塔がほぼ完全な形で残っているのは、尾浜の宝篋印塔だけのようである。南北朝時代のものである。
以前、このブログでも紹介した。
下図 通りに面したところにある地蔵群ではなく、別に祠があるが、格子越しには安置しているものはなかった。
この場所の名称を何というのか知らない。