ホテルとは、元々「旅人」を意味するラテン語の「hospes」が派生して、「手厚いもてなし」を意味する形容詞「hospitalis」となり、これが変化して行ったことがホテルの語源となったと言われています。

旅館業法施行令によると、日本ではホテルとは洋式の構造及び設備を主とする施設のことを指し、部屋数は10室以上と定められています。基本的に室料、サービス料のみで宿泊でき、食事は別料金となっていることが多いようです。

 

雨の中を出かけたのは、伊丹シティホテル。

 

シティホテルは普通名詞である。

ホテルの分類概念の一つである。

シティホテルは、ビジネスホテルより格上の概念である。

ビジネスホテルは出張社員・商人の宿泊専用施設だが、

シティホテルは、会議や各種の式典、懇親会やパーテイ用の部屋とサービスを

兼ね備えた宿泊施設であり、老舗のレストランや理髪・美容店、宝飾店などを組み込んでいる。

初めて利用したわけではないが、伊丹第1ホテルから、伊丹シティホテルに名が変わってからは初めてロビーに入り込んだ。

俳誌の創刊号祝賀、次号以降の編集方針などを話し合った。参会者12名。

雨が激しくなったが、会の終了後、ホテルの横にある寺にある上島鬼貫の墓を5人で見に行った。

碑がある

上島鬼貫は1661年(寛文元年)4月摂津国伊丹の酒造家の三男に生まれた。本名宗邇(むねちか)、通称は与惣兵衛、別号は仏兄(さとえ)・馬楽童(ばらくどう)・槿花翁(きんかおう)など。晩年平泉姓に改める。 
 13歳で松江重頼に師事、のち談林風に転じた。一時は伊丹風と呼ばれる異体の俳諧に遊んだが、やがて松尾芭蕉より早く『まことの外に俳諧なし』と悟り、率直で平易な俳風を示した。著書に『犬居士』『仏兄七久留万(さとえななくるま)』『独りごと』などがある。


 鬼貫は1738年(元文3年)8月、大坂・鰻谷で没し、墓は大阪市天王寺区鳳林寺と北区鶴満寺のほか、伊丹市墨染寺ある。享年78歳。


 通説では、鳳林寺に葬られたといわれているが、鶴満寺の過去帳には「仙林則翁居士 元文戊午年八月二日圓寂七十八才 俗名上島與惣兵衛」と記されてあるとのことで、鬼貫が葬られたのは鶴満寺の可能性もある。句碑は四ツ橋、豊中・服部天神などにある。
 

 

 

秋ハ物の月夜烏はいつも鳴

 

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瓜咲いて月夜の精あそぶ 加藤燕雨
 
松高し月夜も放生会 加舎白雄
 
秋はものの月夜はいつも鳴く 上島鬼貫

月夜烏

=月の明るい晩に浮かれ鳴き出す烏。また,夜遊びする人のたとえ。