1月はすでに神戸句会、西宮句会、大阪句会に
出席投句しているが、
私にとっては尼崎句会がメイン句会なので、今日が「初句会」である。

かつて句会と言えば、土曜日か、日曜日が開催日であった。土曜日も夕刻ないし夜間開催であった。
夕刻の銀行の支店の裏口から入りみすぼらしい会議室で開催の句会
に出席した記憶がある。会社の労働組合の会議室なども句会会場として利用された。


出席者の多くが「勤労者」であったからである。
だから日曜日にギンコウへ行くと云ったら銀行泥棒と疑われたといったジョークもありえた。
(昭和30年頃までは、国語辞典にも「吟行」という俳句用語が載っていなかった)。

昭和40年代の半ばから、子育ての終わった主婦向けの俳句教室が各地で開催され絵画や音楽関係よりは文学志向が強い女性が、句会に参加しはじめ、あっという間に句会は女性支配の時代になっていった。(現在の結社句会では、尼崎句会以外はすべて女性が主任選者である。)

こういった女性の配偶者たちは休日ごろ寝族が
多かったのであろう。土日の句会行事には出席しづらい。
他方それまで句会出席者の過半を占めていた「窓際族」は退職時期に入り、会社の会議室の利用がむつかしくなっていった。


昭和50年代になると自治体の公民館も改築・新築され、
会場もそこになる場合が増えた。
しかし当初は(一部では今でも)集会室利用希望団体が多く、
開催予定日の1か月、2か月前の決められた日に幹事役が
直接会場へ出向き、抽選会に参加しなければならなくなった。

その場合も、平日、とりわけ平日の午前中の時間帯は無抽選で会場確保ができた。
俳句結社の主宰者もお声かかりが多く、私が師事した伊丹三樹彦などは、ついに午前、午後、夜の3会場を回る日も出てきた。その多くは俳句教室であって、互選を楽しむ句会ではなかった。・・・・



初優勝の力士の破願初氷
冬晴れの茶飲み話は収賄など (席題「茶」)
1・17の市営プールに水満々
疑惑又冬の河原の教え鳥
街角の海抜標示初戎

厳寒前
スペアミント

↑花の盛り
↓厳寒後 枯れ

庭のダチュラ