読売新聞の元旦号4面で宗教学者山折哲雄と読売の特別編集員橋本五郎が、「新春対談 2016」((上) 下は3日号に掲載)を行っている。
「「野生化」抑制する教育」とか「「多神教」日本の強み」とか「大震災 宗教者の限界」といった大活字に引かれたわけではなく、「文明の衝突」といった小見出しに魅かれて読んだ。


01年9月11日の米同時テロ(世界貿易センタービルの崩壊)以降、宗教と文明ぶつかりが激しくなっているが克服の道はあるのか、と五郎さんが15年11月のパリ同時テロの歴史的評価を問いかけて対話が始まる。

哲雄さんは、「狩猟社会に見られる部族対立が近代社会の真っただ中に登場してきたと言える」と応答。

どうやら、五郎さんは山折さんの持論をよく知っていて、それの引き出し役を演じているよう。

五郎「日本は神々の共存を認める「多神教」の国である。今こそ日本的なものが見直されるべきだ。」

哲雄「日本人の意識は、3層構造になっている。森林社会と適合する価値観の縄文的な世界観、農耕社会的な世界観、近代的な世界観と重層化されている。キリスト教圏やイスラム教圏の歴史をみると、古きものを根こそぎにし、・・・重層化の機能が働かない。
この意識構造の違いから「日本人は曖昧だ」とも批判されているが、戦争や災害などの危機には右の3層構造の価値観を随所に引き出して柔軟に対応してきた。」

かなり乱暴な理論(発想)だと思う。

まずは「日本は特殊だ」、「世界は日本から学ぶことが多多ある」という発想は、「日本はだめな国だ」、「日本は(極端な場合は日本語も捨てて)、世界なかんずく欧米あるいは、英米から学ぶことが無数にある」という発想がまかり通っていた時代のアンチテーゼとしては有効であったかもしれないが、21世紀前半では、その有効性の賞味期限は切れていると思う。

何冊もの著書で展開なさっている「哲学思想」のエッセンスを数行の対話文で評価するのは危険であるが、案外そういう対話の中で「本音」を知ることが出来るのも事実である。

しかし価値(意識)の3層構造という発想は、私も30歳のころから抱いているものである。3層は相互に断層を起こし、人々の日常生活に各種の葛藤を引き起こす。藤村の『破戒』や『新生』などが読者を集めたのは、発表当時の人々(読者)の生活の葛藤が投影されていたからであろう。

しかしその3層を縄文時代に形成されたもの、それ以降江戸時代半ばまでに形成されたもの、明治の文明開化以降に形成されたものと、時間枠で3分するのは、他の条件節なしでは説得力がない。

この歴史枠で価値意識を、森林文化(社会)、農耕文化(社会)、近代文化(社会)に分けた場合、第1の文化は1万年以上かかって形成され、第2(層)の文化(価値)は2000年弱の期間で醸成され、最表層の文化は500年(日本では150年)を経て形成途上であるということになる。各層の年限が対数表示を要求するほどに、100年単位、1000年単位、万年単位(人類の曙まで遡るとなるとさらに100万年単位)といった開きがある。

さらに近代(西洋)文明(文化)500年の歴史を見ても、
15世紀末から生じる「地理上の発見」に伴う商業流通革命(それに伴う食生活の革命、-イタリアのトマト・ソースを使ったパスタ料理、韓国のキムチなどは新世界の発見なしでは存在しない。)
16世紀なって顕著となる宗教(文化)革命、
地動説の提唱と共に始まる科学革命は、この3つの革命は、相互に巨大な葛藤を繰り返しながら、人々の価値観の転換を生み出し、18世紀末のフランス革命やアメリカの独立へつながってゆく。

人々の価値意識は絶えず変化の過程にあるといってもいいだろう。
過去の意識との断絶などはありえない。
進歩主義は復古主義と絶えず同一人格の中で葛藤を繰り返している。

私の抱く価値意識は、人間の天と地(イデアとマテリアル、神と物)との関係、人と人の関係、人の時間(歴史)との関係の3層(面)から分類される。しかもその3つの関係から6つの立場(価値基準)が区分可能である。

精神(重視)主義と物質(重視)主義(イデアリズムとマテリアリズム:
物質主義の典型的なものは唯物論である。)
共同体主義と個人主義
進歩主義と保守主義

しかし主義(=価値観)を何と名付けようと、それを主張する人によってそれぞれは多様な(時に正反対の)理念・主張を内に含んでいる。
共同体主義と言っても、社会主義(これまた多様な立場がある)とコミュニタリズムとは大きく内容が異なる。

それだけではなく、それぞれの主張や理念、あるいは行動指針には
背後(ないし土台)に複数の源泉ないし基礎がある。
1.17や3.11といった経験、従軍経験、落第や合格経験、小中高校での体験や友人との出会い、肉親との死別、出会いや恋愛・失恋、犯罪の目撃や被害などなど・・・。

そこで、10年単位で変化しやすいものをソフト、100年もすればすっかり様相を変えるような要因をハード、100年を超えて持続する価値意識をベースの要因と呼んでみよう。

気候や地理的要因(島国など)や使用言語(母語)や民族性などはベースの要因であるが、数百年間はわずかな変動しかないであろうが、500年もたてば地球環境の循環的変化の中に巻き込まれるであろう。そうなれば収穫できる農産物、海産物にも変化が生じる。
平均気温の変動や国民の食生活の変化はかならずや国民性、民族性などにも影響を与える。さらに政治体制の変化はもっと短い間隔で変化するために、江戸時代の日本人の気質と、平成の時代の日本人のそれは決して同一ではない。

ベースと言っても、人間一人の寿命を基準にすれば不変固定的であっても、5世代を超えて不変というわけではない。
縄文時代の平均寿命が30年としても5,6世代経てば、居住地を変更したり、主要食糧の内容を変化させなければならなかっただろう。

人間の行動指針や善悪の判断基準は決して100年間不変というわけではない。それでもなお、100年の範囲ならベースとみなされる価値
意識を前提にして、その変容を迫るハード、ベースの価値との葛藤として社会や集団、あるいは個人の行動を解釈することは可能だと思う。

この稿は自宅で事前投稿として書いているが、公開時には山形県天童市内に宿泊している。

↑シラカシ ↓タブノキ

↓マテバシイ

樹に名札がぶら下がっていれければ区別できない。