*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照してください。

 

四国松山などを拠点として終戦間際に活躍した戦闘機紫電改を主体とした海軍の三四三航空隊には、三人の名物隊長がいた。戦闘七〇一飛行隊長の鴛淵孝、戦闘四〇七飛行隊長の林喜重、戦闘三〇一飛行隊長の菅野直である。各々、海軍兵学校六十八、六十九、七十期出身である。

 

その中で最先任の鴛淵の伝記が、

 

豊田穣『蒼空の器・若き撃墜王の生涯』、光人社NF文庫、1993(平成五)年

である。

 

この書については、以前

 

「二著物語・蒼空戦記」

 

で取り上げ、面白い点や難点、著者の事実誤認等について論じたことがあるので、それを参照していただきたい。

 

その折に触れなかったことを付け加えると、上記三人の飛行隊長について三四三空の飛行長志賀淑雄少佐(当時)が後に歴史上の人物に喩えて、鴛淵が大楠公(楠木正成)、林が乃木将軍(乃木希助)、菅野が次郎長(清水次郎長)と評したことが記されている(21頁)。

 

面白いことに、三四三空の司令であった源田実大佐(当時)は三人を評して、鴛淵が智将、林が仁将、菅野が勇将としていたことが、

 

碇義朗『最後の撃墜王・紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』、光人社NF文庫、2007(平成十九)年

に書かれている(359頁)。

 

志賀と源田の評価が期せずして一致している感がある。豊田書には、幼少の頃から一貫して模範的な青年であった鴛淵像が描かれていて、碇書には破天荒な行動をする菅野のエピソードが冒頭に記されている。

 

だが、碇書は菅野の青年期を追う箇所で、菅野を知る人物からの聞き取り調査を基にして、海兵入学までは文学青年であったことを明らかにしている。それが、後には、酒席で隣の部屋から「うるさい」と文句を言われた折に、その隣には海軍少将を始めとする御偉方が集まっているにも関わらず入り込んで、テーブルに並べられている料理を蹴飛ばし回るほどの暴れん坊に変貌したというのである。戦争は人間を変えるということであろうか?

 

以前の論稿で評したように豊田書は小説の要素が多分にある。他に、主人公所縁の地や主人公の知人を訪ねた折の模様を綴る紀行の部分があり、後者は正確な記録と言えそうだが、前者には推測を交えた箇所が多い嫌いがある。

 

それに対して、碇書は純粋な伝記と言えそうで、重要な事実関係の証言については、引用元を逐一明らかにしいる。推測を基にしている箇所もかなりあるが、そういった部分も推測であることが読者に分かるような書き方となっており、安心して読める。

 

こういった点で、豊田書とは対照的と言えるかもしれないが、共通点もある。まず、豊田書を論じた際に指摘したことだが、幼少期から海兵卒業時までの記述が結構長いこと、次に、それに比較して飛行学生から初陣にいたる時期についての記述が短いことである。つまり、両書とも「中間」が薄いのである。

 

戦記として後者の欠落は物足りないと感じる読者は多いであろうが、これは止むを得ない点であろう。

 

幼少期から海兵卒業時までのことについては、取材時当時のことを知る人物が比較的多く存命していたのであろう。それに対して、飛行学生から初陣の頃までについては、詳しく証言できる人物が殆どいなかったのではなかろうか?

 

豊田書を論評した時に、海兵六十八期の「卒業生二百八十八名中百九十二名が戦死」という数字を挙げたが、菅野の期である七十期も卒業生四百三十四名中二百八十二名が戦死している。そして、飛行学生時代の教官や同じ部隊で戦った上官・部下でも戦死者が多かったことは容易に推測できる。それがために、証言者が少なかったのであろう。

 

豊田は「あとがき」で、「現在の繁栄の土台に、鴛淵のような純粋に国を愛する、友情に厚い青年がいたことを、忘れてはならない」と書いて筆を措いている。上記の数字は、それを無言で訴えているが、両書には、鴛淵・菅野の同期生たちのその後も所々に記されている。数字には出て来ないそれら戦士の一人一人の青春に思いを馳せるきっかけとなる良書である。

 

因みに、筆者が古本屋で入手した豊田書の最後には、購入した読者によるものと思われる書き込みがあった。「平成五年四月参日 午前中晴レナルモ晝近クヨク曇ル 暖カキ日ナリ」というものである。文中のカタカナや、「晝」という漢字から判断して、戦前生れで豊田あたりと同世代だったのではなかろうか?恐らく、今では鬼籍に入っているであろう。

 

古本には、こういった発見が間々あり、筆者(山本)の一つの楽しみである。