*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照してください。

 

今年の大河ドラマで“エリカ様”が薬物騒動で降板したために、急遽川口春奈が演じている役である。

 

斎藤道三の娘で織田信長の妻となった女性。“濃姫”と称されることが多い。本名は“帰蝶”もしくは“奇蝶”となっていたとする史書もあるが、この時代の女性の通例として本当の名前は定かでない。

 

名前は勿論のこと、その生涯についても不明な点が多い。

 

まずは、

信長の正妻であったのはいつまでであったのか

いつ死んだのか?

という問題である。

 

<以下、各書の内容について若干もしくは相当のネタばれがあるので、要注意>

 

阿井景子『濃姫孤愁』、講談社文庫、1996

は、斎藤道三が嫡子の義龍に討たれた後に、母(明智家出身の小見の方)の実家に帰され、明智城が義龍の軍勢に攻められて落ちた際に、運命を共にしたという設定にしている。

 

信長への嫁入り直後から始まっている話は、当然のことながら薄命で終る短い生涯を描く。要するに、政略結婚で嫁いだものの利用価値がなくなって捨てられたという説に従い、薄幸の女性であったとしている。

 

(*当書が、通説では深芳野となっている斉藤義龍の母を、美濃の稲葉氏の娘としている点[107-08頁]が若干気になった。依拠した史料があるようだが明示しておらず、真偽は不明である。尚、この書には他に、「義元の首級」、「兜の的」という二編の短編小説も収められている。前者は、桶狭間合戦で今川義元が討たれた後も今川方の尾張の拠点の一つである鳴海砦に籠城し続け、義元の首級と交換する形で砦を引き渡した岡部元信が、その後武田家の遠江の拠点である高天神城の主将として最期を迎えるまでを描く。後者は、関ヶ原合戦の北陸での前哨戦とも言うべき前田利長と山口宗永・修弘[ながひろ]親子との戦いの中で、鉄砲鍛治の娘と修弘との淡い恋物語を交えながら展開する話である。“落城譚”とも言うべき三編が収録された形である。)

 

これに対して、

 

中島道子『濃姫と子(ひろこ)・信長の妻と光秀の妻』、河出書房新社、1992

は、道三死去後も濃姫が織田家の“正室”の座に留まり、本能寺の変の時まで存命であったという設定にしている。但し、司馬遼太郎の『国盗り物語』を基にした1970年代の大河ドラマで松坂慶子が演じていた濃姫のように、本能寺で薙刀を振るって奮戦するようなシーンはない。

 

明智光秀の従姉妹である(とされる)濃姫の物語が前半で、後半は光秀の妻で荒木村重及び細川忠興の妻となった女子の母である妻の半生を描いており、どちらも本能寺の変で終っている。

 

その最期は、阿井書での濃姫の最期と相通じるようなものであったことを示唆していて、はっきりとは書いていないが濃姫は安土城で最期を迎えたことを匂わせる筆致であり、凞子は近江の坂本城で果てたと明確に述べている。

 

以上二書とは対蹠的に、

 

諸田玲子『帰蝶』、PHP研究所、2015

は、濃姫が江戸時代まで生きていたという話しの展開となっている。

 

この書では、濃姫も然ることながら、信長の娘五徳(徳川家康の嫡男、信康室)やお鍋の方(信長の側室)といった信長周辺の女性達の他に、濃姫に従って織田家に随身した異母兄と実弟、京都の商人である立入宗継、信長の右筆の一人であった武井夕庵といった多彩な人物が登場する。

 

後半は、本能寺の変に至るまでの、このような登場人物の行動を辿る展開で、サスペンス小説のような流れとなっている。

 

本能寺の変については、いくつかの“謀略説”が出されているが、この書も謀略の存在を匂わせるような筆致で物語を進めているが、著者(諸田)自身は「あとがき」で「明智光秀に共謀者や黒幕がいたとはおもわない」(361頁)とはっきり述べていて、小説と学説とを峻別している。

 

以上のように諸説ある濃姫の最期については、

 

横山住雄『織田信長の尾張時代』、戎光祥出版、2012

が、学界の動向を手短に纏めていて、著者(横山)自身は、濃姫の没年については、岐阜の崇福寺から後に甲斐の恵林寺に移った快川紹喜の文書の内容を根拠として、天正元(1573)年としている。

 

著者(横山)は、濃姫をめぐる今一つの疑問として、

 

③土岐頼純(頼充)に嫁いだ斎藤道三の娘と、信長に嫁いだ“濃姫”とは同一人物か?

 

が、学界の動向を手短に纏めていて、著者(横山)自身は、濃姫の没年については、岐阜の崇福寺から後に甲斐の恵林寺に移った快川紹喜の文書の内容を根拠として、天正元(1573)年としている

 

要約すると、前出①と②の疑問については、以下の四説がだされている:

(1)父道三死亡時に織田家から離縁され明智城陥落の際に死亡

(2)本能寺の変まで織田家の正室で、変の直後に死亡

(3)本能寺の変まで織田家の正室で、濃姫自身は江戸時代まで存命

(4)いつまで正室であったかは不明だが、没年は天正元年頃

いずれが正しいかについて、筆者(山本)は判断しかねる。

 

著者(横山)は、濃姫をめぐる今一つの疑問として、

 

土岐頼純(頼充)に嫁いだ斎藤道三の娘と、信長に嫁いだ“濃姫”とは同一人物か?

 

という問題を投げ掛け、「同一人物である」との立場を取っている。

 

土岐頼純は、美濃の守護であった土岐頼武の子息。斎藤道三が頼武の弟である頼芸の後押しをして守護の座に着け、その頼芸をも追放して美濃の実権を掌握するが、頼武の妻の実家である越前朝倉家の後援を得た頼武が頼芸と提携して反撃に出る。道三は土岐家と和解して頼武の子息である頼純を名目上の守護として迎え、娘を娶わせるが、その後頼純は急死する。

 

今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、土岐頼純に嫁いだ娘こそが“帰蝶”で、頼純は道三によって毒殺されたという設定になっているが、これは当書の著者(横山)の説にある程度沿った内容である。

 

今後、ドラマの中で帰蝶がどのようなキャラクターとして描かれ、如何なる運命を辿っていくのか、見るのが楽しみである。