前回の設問への解答

 

Axis Strategy, 1945

 

という見出しを如何に訳すかという問を発し、ヒントとして、

 

①Axisはこの文脈では何を指すか?

 

時には原著の記述をも疑え

 

の二つを出し、更に、見出しが包摂する箇所からキーとなる分を幾つか抜粋しておいた。

 

以下に、その抜粋部分を再び提示して、拙訳を付す:

 

As summer gave way to autumn in 1944 German actions were ever less relevant to the course and outcome of the war. Throughout the second half of 1944 Germany’s enemies held the initiative, yet this was an initiative all but unused in the main theatres of operations during the last quarter of the year and indeed by October 1944 the fronts displayed a curiously lop-sided but at the same time balanced picture.(一九四四年の夏が秋に移り変わるに連れ、戦争の経過・帰趨はドイツの動向に関わりなく進むようになっていき、同年の下半期を通じて主導権を掌握していたのは連合国陣営であったが、この主導権は同年の第四・四半期には主要な戦線で殆ど活用されることがなく、実際には同年十月頃になるとそれらの戦線は、彼我の優劣関係がはっきりしていると同時に均衡状態が保たれるという奇妙な様相を呈していた。)

 

In the west, the four-fold Allied failure of the summer—(中略)—provided a Wehrmacht reduced in the west by the end of September 1944 to about a hundred tanks and twenty divisions fit for battle with a respite it could not secure for itself by force of arms.(西部戦線では、一九四四年九月末の時点でドイツ軍の保有する戦車が約百台で戦闘に堪える師団数が二十個ほどとなっていたが、連合軍が夏の間に犯した四つの失策が重なって、ドイツ軍は自身の手では得られなかった休息を得ることとなる。)

 

The failure to understand the limits both of military force in the conduct of war and of German national power within the international community characterized Germany’s actions in two world wars, almost as if the very success of the one German leader who had understood both—Bismarck—blinded successive generations of Germans to these realities because they saw only his military victories.(二つの大戦でのドイツの行動様式を特徴付けていたのは、戦争を遂行する上で軍事力が果す役割の限界と国際社会でドイツの国力が及ぼす力の限度をどちらも理解していなかったことであるが、これはあたかも、どちらをも理解していたドイツの一指導者であったビスマルクの成果に幻惑された後世のドイツ人が、ビスマルクによる軍事面での勝利にのみ目を向け、これら二つの現実から目を逸らしたかのようである。)

 

お分かりであろうが、見出しでのAxis(枢軸、枢軸陣営=日本、ドイツ、イタリア、等)という単語とは裏腹に、ここで論じられているのはドイツについてのみであり、日本を含む他の枢軸国には少しも触れられていない。

 

ここからは、小生(山本)の推測に過ぎないが、原著者が見出しを付す際にうっかり誤ったのではないかと思われる。そこで小生は、これを

 

ドイツの戦略方針・1945年

 

と改めておいた。

 

ところが、監訳者は(恐らく、いつもの如く、内容を全く読まずに)

 

日独の戦略一九四五年

 

と訳しなおしていた。

 

翻訳をする場合に機械的にロボットの如く訳して行くのが翻訳者としての役割なのかもしれないが、その場合には監訳者が目を光らせて文脈・内容を仔細に検討して修正していくべきではなかろうか。小生はこのような監訳者の役割を先取りしたわけだが、監訳者は何が気に入らなかったのか、役割が逆転した形で単純な直訳をしていた。せめて、そのままにしておけばよかったものを・・・。こうなるともう「奸訳」と言うべきものである。