*当シリーズの趣旨については、プロフィールを参照してください。

 

武田勝頼と言えば、戦国武将の中でも名高い武田信玄の後継者となったものの、結局非業の最期を遂げて武田家最後の当主となった武将として知られる。

 

「猪突猛進」、「父信玄を乗り越えようと躍起になった」といった評価が与えられてきたが、そのような見方に異を唱えた恐らく最初の書が、

 

上野春朗『定本・武田勝頼』、新人物往来社、1978(昭和53)年

である。

 

書き出しは、高野山に保管されている勝頼と北条家から嫁いで来た夫人、そして勝頼の嫡男信勝の三人が描かれた肖像画を著者が目の当たりにした時の印象譚から始まっている。夫人と子と三人一緒に描かれるという戦国武将の肖像画としては珍しい構図から「勝頼の人間的な一面、いまでいうマイホーム型で型破りの、考えようによれば愛情こまやかな開明性のある人間像を、そこに想定することすらできるのである」との感想を記している。

 

これ以降著者は、勝頼が武田家の中で複雑な立場に置かれていたことをほぼ時系列的に追っている。即ち、

 

・父信玄が自殺に追い込んだ諏訪頼重の娘を母として信玄の四男として生れ、当初は諏訪家の名跡を継ぐ者とされるが、

・信玄の嫡男義信が父信玄との確執から死に追い込まれたのを機に、次期当主として武田家の中枢に入り込むも、武田家が亡ぼした諏訪家の血を引いていたことが陰を落として自身の息子信勝が成人するまでの後見・陣代としての地位に甘んじなければならなくなり

・そのような地位故に、それまで信玄がカリスマ的な統制力で動かしてきた家臣団が、信玄没後に分裂状態となっていくのを纏め上げるのに苦労し、

・家中の団結を維持するためにも積極的な対外政策を推し進める必要が出てきて、

・同時に、風雲急を告げる対外情勢に対応すべく武田家や家臣団の再編・改革に取り組む必要があったが、

・その際に、どうしても跡部大炊助勝資、長坂釣閑斎光堅といった、『甲陽軍鑑』(後出)では勝頼配下の「佞臣」として描かれている側近を重用しなければならなかった、

 

といった経緯である。

 

要するに、父信玄が推し進めてきた武田家の領土及び武田家家臣団の拡大の負の遺産を自分なりに清算して新たな武田家の体制を構築しようとしたものの、結局は時代の波に翻弄されて滅び去った悲劇の主人公として勝頼は描かれている。

 

著者は、このような史実論(history)を展開すると共に、これまでの通説的な武田勝頼観がどのように形成されてきたかを分析する史述論(historiography)にも力を入れている。

 

通説の基となったのが『甲陽軍鑑』であり、元々は武田信玄子飼いの武将の一人であった高坂弾正昌信が著したものである。後世相当筆が入れられてはいるものの、全体を通底する高坂の元々の動機は明らかであると上野は言い、その動機を形容して「歎異の書」であると説く。具体的には、勝頼の時代に変わって行く武田家の状態を悲嘆して、信玄の時代への回帰を切望する書であり、言うなれば、改革派に対する守旧派の抵抗書であったと言う。

 

それまで史家が『太平記』同様、余り「史学に益なし」としてきた『甲陽軍鑑』に、このように史料としての位置付けをした点、在野の研究者だからこそできたものとして高く評価したい。綿密な史料考証による史実の分析と相俟って、当書は今でもその価値を減じていない。

 

それが証拠に、最近著された

 

笹本正治『武田勝頼・日本にかくれなき弓取』、ミネルヴァ書房、2011(平成23)年

は、上野書から多くの引用をしているし、その書き出しからして、前述の肖像画への言及から始まっていて、上野書の二番煎じかとも取られかねない書き方である。

 

それでも、これまで紹介されてこなかった一次資料からの引用がふんだんにあり、大いに参考になる。

 

中でも、冒頭で触れ、その後本文で詳述してある天正八年頃の武田家領内での訴訟案件で勝頼が自ら裁定した事案(iii頁、249-52頁)は、勝頼の人柄を物語るものとして注目に値する。

 

但し、長篠合戦を論じた章に残念な記述が一つあった。

 

(天正三年)五月十二日、勝頼は長(釣)閑斎(長坂光堅)へ、すべてうまくいっているから安心するように、・・・」と書状を送った。(79-80頁)

 

とあるが、この書が出版される前年の2009(平成21)年に平山優が出した論文で、この「長閑斎」は長坂釣閑斎ではなく、今福長閑斎という別人であることが明らかとなっている。この点を見逃したようである。

 

<*平山優は、『検証・長篠合戦』という研究書も出版している、二著物語:長篠合戦(中)及び二著物語:長篠合戦(後)を参照>

 

上野春朗と同じ山梨県出身の笹本が著した当書の副題は、『三河物語』に出てくるエピソードの一つから取ったものである。『三河物語』では、武田勝頼の首級を目の当たりにした織田信長は「日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給ひて、かくならせ給ふ物かな」と言ったことになっている。

 

このエピソードについては、信長が勝頼ら主だった武田家の面々の首級を京都に曝させた事実を指摘して、それまで散々自分を苦しめてきた武田家、なかんずく勝頼の首級に向かってそんな優しい言葉を使うはずがないとして否定的な意見が多いが、家康を褒めこそすれ信長を褒める理由がない『三河物語』が記した話しであるが故に、信憑性を認めても良いような気がする。