順接か逆接かを見極めよ。文章構成に意を払え。

 

まず、小生の訳文を提示する。文脈としては、敗戦に向うドイツ指導部、取り分けヒトラーについて著者が記している箇所である。例によって、問題となる部分に下線を付す:

 

「敗北が必至となると共に現実からの逃避が始まったということだが、同時にヒトラーの戦争遂行態様が合理性を欠いていくことには到底ならなかったし、最終段階でヒトラーが標榜した、ドイツと相対する連合国陣営の結束が崩れるまで戦い続けなければならぬという根本理念は、夢想と呼ぶには程遠い響きを持っていたのである。」

 

原著者の原文が詩文調になっていたがために、小生の訳文もそのような調子になって若干分かり難いかもしれない。原文は以下の通り。小生の訳文で下線を引いた箇所に対応する部分に下線を引く:

 

With the certainty of defeat came the escape from reality, yet at the same time Hitler’s conduct of the war was very far from being irrational, and his leitmotif in the final phase—that Germany had to continue the war until the alliance that opposed her fell apart—was far removed from fantasy.

 

読み返してみて小生は、irrationalという単語を「合理性を欠く」といった表現で訳したのは少し拙かったかもしれないと反省している。「筋が通っていない」といった訳の方がよかったかもしれない。それでも、小生の訳には、以下に提示する監訳者の訳文のような重大な誤りはないと今でも考えている。それに、原著者が言わんとしていた「現実からの逃避が始まったが、それでも、ヒトラーの政戦指導には筋の通ったものがあった」という趣旨は十分伝わっており、以下に提示する監訳者の修正版のような重大な誤りはなかったと考える:

 

「敗北が必至になると共に現実からの逃避が始まり、同時にヒトラーの戦争遂行態様が合理性を欠いていくことには到底ならなかったし、最終段階でヒトラーが標榜した、ドイツと相対する連合国陣営の結束が崩れるまで戦い続けなければならぬという根本理念は、夢想と呼ぶには程遠い響きを持っていたのである。」

 

この訳文では、読者が混乱するのではなかろうか?文章構成の上から見ると、「現実からの逃避が始まり」という部分が「合理性を欠いていく」と並列されて直後の「こと」に結びつくように読むことが可能であるし、そうするのが自然である。つまり、「敗北が必至になると共に現実からの逃避が始まることには到底ならなかったし、ヒトラーの戦争遂行態様が合理性を欠いていくことにも到底ならなかった」という意味になってしまう。だが、原文を読めば明らかなように、「現実からの逃避が始まった」の部分は、yetという副詞が直後にあるがために、その後の文とは明確に寸断されており、「現実からの逃避が始まったにも拘らず」という意味であるのは明らかである。

 

監訳者が何故このような誤訳をしたのかを分析してみる。恐らく、監訳者も上記のような意味にする意図はなかったのであろう。だが、「現実からの逃避が始まった」という一節を目にした監訳者は、その後に続く部分も「現実からの逃避」の具体的説明だと(多分原文を読まずに)判断したのであろう。そして、その直後の「合理性を欠いていくことには」という箇所を見て、「現実からの逃避」の具体的説明だと見誤り、それに続く「到底ならなかった」に意を払わなかったのであろう。

 

木を見て森を見ざる訳・監訳にならぬよう、細部のみならず文章・段落全体に意を払って作業すべきである。