心の支えというのはいつの時も、自分に都合のいいものだと感じます。
どんな形でも自分を受け入れ、ひとときの安らぎを求めては現実を直視する時間を減らせる場所、人、物を探してしまう。
けれどそれが日々の活力になり動力になれば、逃げているばかりではないと自分を否定せずに居られる。
場所も人も物も、支えがなければ倒れてしまう。
 
 
 
私は、人より気が短いと思っています。
そうは見えないと言われるけれど、見せないようにしているところもあるけど、憤りが内に向かって行く傾向にあるから見えにくいだけだと思っています。
怒りや苛立ちが常にあって、ちょっとしたことで熱を発します。それが零れては、周囲に迷惑がかかると思うから、本当は抑えるのにいつも必死です。
 
でもそれを吐き出させてくれる人が居て、受け止めてくれる人が居る。
私が間違っている場合も、そんな風に考えてはいけないという場面も、考え過ぎだと言われる状態も引っ括めて、でも私はこう思うのと、そうすればただ楽になって、頭が冷えていくことを知っている。
自分の事を自分が一番わかっていないから、悪い癖や欠点をそうして修正していきたいと思います。話を聞いてもらっている分、成長しなくてはいけないと思います。
 
楽しみな行事がありながらも、会社でうまく消化できないことがあって、でも仕事は選べるわけではもちろんないから、めそめそしながらただ時間が過ぎるのを待っている。
そんな時に、今ココで、という瞬間に、見たい顔が現れた時は、まるで凝り固まっていた何かが溶けるように、止まっていた時間が流れるように感じるのだと初めて知りました。自分が般若のような表情をしていたかもしれないということも……
同時に、いつの間にか支えになっていたのだと気付いて驚愕しました。
 
次の日の飲み会のために長居はせず、差し入れだけ置いて去っていったけど、そのスマートさは惚れ惚れするくらいでした。きっと心配をかけてしまったのだと反省もしました。でもそのおかげで一日を終えることが出来たと感じたのは、決して大袈裟じゃない。
 
私は仲間に居場所を与えてもらったけど、小刻みに過ぎる毎日の居場所は自分で見つけなくてはならなくて、似たような感覚でそれを日常に組み込んでいる先輩が、いつもヒントを与えてくれます。
求め続けていた共感を得ることができた。
 
私は支えられている。自分の都合のいい時に、誰かに支えてもらっている。
誰もが周囲に生かされているけど、自分も誰かが倒れそうな時、疲れたらちょっと手をかけて休めるような、そんな支えになれたらいいと思います。
誰かのためならば立って居られる気がするから。

その人の都合で、加減で、タイミングで、求められたならなんだって出来る気がするから。

 
領域を穢すことはできないけど、此処に居るよと示してくれるのは、みんな孤独が怖いから。
そんな都合も、自分の弱さを認めた後なら一層愛おしい。
いつかそんな居場所さえも、共有できる日が来るかもしれない。
それまでは、しっかりとそのポジションを掴んでいたいと思います。
 
2017.4.17
 
 
 
 
 
image