今までのお話は、

樹脂粘土作家ができるまで① 「生い立ち」  

へ、どうぞ。

 

 

今回は、そろそろ将来の進路を決めなくては・・という時期に、

母のとの間に起きた反抗心について、お話したいと思います。

 

こちらも、①の生い立ちと共に、

自分の生き方、考え方にかかわる出来事で、

人生の大切な気づきがあった事でもあります。

 

 

母がお花の手入れをまめにやっていたおかげで

家の外にも鉢植えの色々な花が季節ごとに咲いていていました。

夏の水やりは大変でしたが、

誰かが、水をやらなければ枯れてしまうので

日課として母か私がやっていました。

お花の名前も、母から教えてもらうことが多かったです。

 

 

私は、就職活動をする時になって、

商社や金融などの面接をする気が無く

「お花屋さんになりたい!」と真剣に思っていました。

 

父は、自分が当時は珍しかった写真専門学校に進んだこともあって、

「自分のやりたい道に進め」と言ってくれましたが、

母は、「4年生大学にも行ったのに、なんで花屋なの?」

という意見でした。

 

その時の自分の考えは、

母のおかげで、お花好きに育ったけれど、

 

 

「生きているお花だからこそ、パワーをもらえる。

枯れないお花なんて、本当の花じゃない!」

 

「限りある花の命をいただき、私たちが愛で、

お花の分まで自分たちも生きよう!と思うことが大事」

 

「枯れてしまうからこそ、咲いている時が尊く、

いのちの輝きがあり、私たちにその輝きをくれるのだ!」

 

「ちゃんと毎日水を替えて茎の端を切って、

手をかけてあげれば、お花だって長生きする!」

 

 

生きているお花になぐさめられたり、

励まされたときも、たくさんあったので、

 

お花が「生きている」ということが、

私にとって「最も重要」でした。

 

 

 

結果、私は自分の思う通りに、

オランダにも子会社がある

青山通りの高級お花屋さんに就職しました。

 

当時はバブル期で何万円もするお花が

どんどん売れていた頃・・・

 

なのに、事務部門に配属され

 

「お花が好きでお花屋さんに就職」したのに、

お花に全く触れられないストレスの日々。

 

友達からの飲み会の誘いには、

「9時からなら、なんとか参加!」という答えしかできず、

青山はバブルで陽気で、キラキラした世界なのに、

会社の仲間と残業の夜食を食べる毎日。

 

 

花束を作るので忙しいならまだしも、

伝票や請求書作業だから

心も折れてしまいそう。

 

当時の記憶を思い返しても

自分で自社のお花を買った記憶がない・・・

 

 

 

 

今日も、ここまで読んでいただきありがとうございました。

感謝をしてこのブログを終わりたいと思います。

 

 

 

次回は・・・

樹脂粘土作家ができるまで③ 「母との和解」 です。