娘が保育園に行きたくないと言う。
なぜ行かなければならないのか――と、彼女は思っている。
この問いに、私は即答できない。

もちろん、「社会生活に慣れるため」などという、もっともらしい理由はある。
しかし、そもそも“社会生活”とは何か。
私が生きてきた中で学んだのは、それは自分の欲望とは無関係に、与えられたことをこなす訓練であるということだ。
それを私は“淡々力”と呼んでいる。

新しい会社に入って、周囲の淡々力の高さに驚いた。
誰もが与えられた業務を、感情を介さずに処理していく。
私は感心すると同時に、寒々しい気分になった。
この「感情を排した適応」は、確かに人を生かす。だが同時に、人を空洞にする。

私は淡々力を否定しきれない。
なぜなら、それは「やりたいことがない人間」が生き延びるための確実な手段だからだ。
そして、多くの人間はやりたいことを持たない。
その場合、淡々力は生存の条件である。

しかし私は娘に、そうなってほしくない。
淡々と生きることは、確かに楽だ。だが、それは白黒写真のような人生だ。
私は、やりたいことを初志貫徹する“耐久力”を持つ人間であってほしい。
耐久力は、感情を伴う。痛みも伴う。だが、それこそが人生をカラーにする。

この時代、AIがほとんどの淡々仕事を代替するだろう。
つまり、これからは「自分の意志」を持たない者は、より生きづらくなる。
意志を持たない人間は、やがて淡々力すら必要とされなくなる。

娘に保育園を勧める私は、どこまで本気なのだろう。
「社会に慣れるため」という言葉は、単なる方便にすぎないのではないか。
本当は――私自身が淡々力を身につけられず、それを恐れているだけではないのか。