このところ教育勅語が話題に上っています。
思い出したことがあります。
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むかしむかし子供ころ、
祖母から、
「教育勅語を学校で教えてないから、そんなに愛情がないんだ」
と言われました。
大人にとって都合がよい、
自分たちの言うことを尊敬して
言うことを聴いて、
その通りに行動できる人、
感情や価値観もその範囲である人
を求めるものなんだなあ、と思った記憶があります。
尊敬、愛情などを強要され、
大人が望む気持ち(さらにそのベースの価値観や生き方)にならないといけないと言われたように感じたのでした。
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単純な文字としてのことばだけでなく、
文章全体が持っている目的、指向性、エネルギーや
文章が使われてきた歴史によって持つことになったエネルギーまで
みないといけないのじゃないか、と思います。
「べきこと」を
「自然とそうしなさい」
その時代背景としての目的から、
統制するためには必要だったかもしれないけれど、
自分たちの思いや言葉をまとめたものではないだけに、
なかなか受け入れづらく思います。
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さらに、この伝える基本的構造が、
「明治から昭和のかなり後半までの教育のかたち」
「特に戦時中に効果を発揮したかたち」
の上意下達なのが具合が悪い。
おそらく、新しい教育指導要領でのアクティブ・ラーニングの言い換え
「主体的・対話的で深い学び」
ではおそらく同じ結論にはならないでしょう。
枠や制限のない
「主体的・対話的で深い学び」
これでないと、「学び」ではありません。
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話を戻して。
15年ほど前に亡くなりました。
祖母は、今でも好きなんですよ。