すべて自分が悪い | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

道徳論だけでは生きていけないのが現実である。

 

たとえばアナタが街を歩いてたら、男ふたりの喧嘩に遭遇したとする。

しかも男ひとりは手に刃物を持っている。

さあ、どうするか。

喧嘩を止めに入るか?

 

道徳論としては、喧嘩の仲裁に入るのが正解かもしれない。

でも、ここで仲裁に入ったらかなりの確率で刺されるだろう。

道徳論では正解かもしれないけれど、生きていたければスルーつまり

傍観するのが正解。

悲しいけれどそれが現実だと思う。

実際、刃物を使った喧嘩に遭遇しても私は仲裁に入るという勇気ある

人はいるだろうか。きっといないと思うが、オレはそういう人を見ても

決して軽蔑したりはしない。

 

喧嘩の場面に限らず、本当にこの世で長く生きていきたかったら、

ときには姑息にならないと無理。

もっとも死んでもいいというならば話は別だが。

 

そうそう、すこし前に有吉弘行とマツコ・デラックスがテレビで、

「なにかやらかしたのをやりすごすときは人のせいにするのが一番」

といっていた。

的を得ていると思った。

実際世の中はそれで溢れていて、正直者がバカを見るシステムになって

いるのは事実。

道徳論として人のせいにするのはNGだが、サバイバル術としては

人のせいにするのが正解だろうと思う。

有吉とマツコのこういう綺麗事言わないスタイルは好感が持てる。

 

そういえば、オレも昔からたまに

「人のせいにするな」

といわれてきた。

でもオレとしては、ありのままの過程をそのまま報告しただけで

別に人にせいにしているつもりはないというか、本当にその人のせいだから

そのままいっただけのつもりである。

でもやはりイイワケに聞こえるのかもしれない。

 

ただ、オレも人のせいにしていると人聞き悪いこと言われると

腹がたつので、最近はとりあえず自分のせいにしておこうと考えるように

している。

 

たとえば職場で怒られたとしよう。

それは自分が悪い。

見当違いなことで怒る上司や先輩がいる職場を選んで入った自分が悪いのだ。

 

学校で嫌な同級生が先生がいた。

それも自分が悪い。

そういう同級生や先生がいる学校を選んで入学した自分が悪いのだ。

 

大学4年生のときの就活では書類選考含めて100社以上に落とされた。

でも内定でなかったのは自分が悪い。

面接官というのは基本可哀想な人である。

とくに人を見抜く天才でもなんでもないのに社内配置で採用担当に置かれた

だけ人である。

そんなプロでもなんでもないセンスない人が面接官に配置されている企業を選んで

受けた自分が悪いのである。

 

恋人にフラれたら、それは自分をフルような恋人を選んだ自分の責任である。

 

これでオレも不本意な結果について、人のせいにすることは少なくなった。

どうです?立派でしょう?

 

つまりは、憎めよ自分の選別眼をということだ。

 

なので会社や学校で怒られても、上司や先生のせいにしてはいけない。

自分のことを理解したり、信用していないような上司や先生がいる企業や学校を

選んで入ったほうが悪いのである。

 

この考えを受け入れられたら、アナタはなにが起きても決して人のせいにしない

人になれるのかもしれない。

 

オレは根本的な思想は揺るがない。

だから、自分はあっているという前提で、それを叱ったり説教したりしてくる

人間に遭遇したら、そういう人間に巡りあった自分が悪いと思うようにする。

人のせいにはしない。