お父さん 最高! | 伊東市・健康スポーツ整体院のダントツ元気☆整体ブログ

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さあ今日は明日のリハーサル♪
整体大好きブログ編

http://www.youtube.com/watch?v=VJMbk9dtpdY


見たら泣けちゃいましたっ(*^.^*)!!!
最後の息子さんの満足そうな笑顔に感動です。



父の名前は" Dick Hoyt/ディックホイ"、
息子の名前は "Rick Hoyt/リックホイ"

息子リックは生まれる時、へその緒が首に巻きついたせいで脳に酸素供給ができず、脳性マヒとひきつけ性全身麻痺になった。

その後リックは一人で動くことも、 一人でものを言うこともできない状態で暮さなければならなかった。

リックが満9ヶ月の時、医者はHoyt夫妻に「あなたの息子は、一生植物人間として暮らすことになるので、施設に入れることをお勧めします」と伝えた。

Hoyt夫妻は、部屋の中でリックが二人のことを目で追っているのを感じていたので、医者の言葉を信じなかった。

リックが11歳になった時、夫妻はリックをタフツ大学の工学科に連れていき、なんとかリックがコミュニケーションをとる手段がないかと相談する。

しかしその返答は「彼の脳は全く機能していません」というものだった。

「そんなはずがない」と思った父ディックは「何かジョークを言ってみたらどうだ?」と提案した。

彼らがジョークを言うと、リックは笑った。

これにより、リックの脳が十分に機能していることが分かり、コンピューターを使って、言葉を伝えることができるようになる。

リックがコンピューターを使って最初に入力した言葉は

「Go Ruins」。

Ruinsはその頃自分たちが住んでいたアメリカボストン地域の ホッケー チームの名前だった。

Hoyt夫妻はリックがスポーツに興味を持っている事を知る。

そしてリックが 15歳になった日、同級生が事故で体が麻痺してしまう。
全校生徒がその生徒のために慈善活動として長距離走大会を開催することになった時、父ディックは息子から次のようなメッセージを受ける。
「お父さん、僕、それに参加したい」

当時のディックは自称「ぶた」。
1.6キロすら走ったことがない体だったが息子のために挑戦した。
無事に走りきったものの、その後2週間は筋肉痛で全く動くこともできなかった。
しかしこの長距離走がリックの人生を大きく変えた。

その完走後、息子はこんなメッセージを書いた。

「お父さん、一緒に走っていた時、僕は生まれて初めて自分が障害者だということを忘れていたよ」

そしてこの言葉が今度はディックの人生を大きく変える。

障害者だということを忘れられる時間を息子のためにできるだけたくさん作り出してあげたいと心に決意する。

父ディックの息子のための過酷な挑戦が始まったのだ。

1979年のボストンマラソンにリックと二人で出場できるよう、ディックはトレーニングに励み始める。

しかしながら、単独ランナーでもなく、車椅子ランナーでもないHoyt親子は、なかなか正式に出場許可が下りなかった。

それでも、市民ランナーに紛れて何度か走っているうちに、なんと翌年の参加資格を得られる基準タイムよりも良いタイムでゴールし、正式に出場権を獲得したのだ。

多くの地域の大会に出場をしながら、夢と力を育ててきた父は 1981年息子と一緒にボストンマラソン大会に参加したが、もの珍しい装いの2人を人々は偏見の目で眺めていた。

彼等に声を掛ける者もいなかった。

2人は初めて途中であきらめてしまう。

“頭に来るより悲しかった”

しかし彼らは 1年を準備し、 1982年に再びボストンマラソン大会に参加し、息子を車寄子に乗せたまま押しながら8キロ走ったあげく、後から二番目の成績で完走した。

マラソンを始めて 4年後、「じゃあ、次はトライアスロンをやってみたら?」とディックに言う者が出てきた。

一度も泳いだ経験もなければ、6歳以来自転車に乗ったこともないディックが、50キロ近い息子を引きながらトライアスロンなんて無理だろうと思ったものの、ディックは息子のためにと思い挑戦する。

父ディックはスイミング3.9キロ、 サイクル180.2キロ、 マラソン42.195キロをしなければならないトライアスロンの準備をし始めた。

そして, 何年の歳月が経った後、一番過酷なスポーツの中の一つとして指折り数えられる鉄人 3種競技に出場する。

スイミング(3.9キロ)をする時は息子リックをゴムボートに乗せたまま腰に紐をつけて海を泳ぎ、サイクル(180.2キロ) の時は息子のために座ることができるようにされた特殊椅子に乗せて熔岩地帯を走り、マラソン(42.195キロ)の時は息子が乗った車寄子を押してなんと完走を成し遂げたのである。

最後のテープに向けて走って行く彼らの姿に、観衆たちは最後まで見守りつつ待つことで、皆起立拍手を打ちながら歓呼した。

16時間 14分。

その後、彼等は1982年から 2005年までボストンマラソン大会 24年連続完走記録を出し、競走と自転車で 6,000Km アメリカ大陸を横切った。
鉄人 3種競技は 6回完走をした。

一方で、ディックもこの息子への愛情がゆえの偉業を通して大きなものを得ていた。

2年前のレース中に軽い心臓発作に見舞われたディックが医者に行くと、動脈の一部が95%もふさがっていることが発覚する。

医師は「もしこれだけ運動をしていなかったら、15年前に死んでいたかもしれない」とディックに告げた。

ディックとリック親子は互いにとっての命の恩人だったのだ。

「一人で出場したらすごい記録が出るかもしれないし、やってみたら?」という質問に対して、ディックは

「リックと一緒に走ったり、泳いだり、自転車に乗ったりしている時に、リックが見せてくれる満面の笑顔を見るのが最高に嬉しいからやっているんだ。それでは意味がないよ。そして、競技完走テープを切る時度に、リックは世の中で一番大きいほほ笑みをして見せる。これはリックが私に与える最大の贈り物だ。 リックは音さえ出すことができないが完走に成功する瞬間、自分にできる最大の力を振り絞り何かを伝えようとする。多分幸せを表現したいようだ。」

今年65歳になったディックと43歳になったリックは彼らにとって24回目になるボストンマラソンを2万人中の5083位でゴールした。

彼らのベストタイムは1992年に出した2時間40分。

世界記録のたった35分遅れだった。



人間の可能性に限界はないと改めて思いました。
そして人間の限りないパワーを感じました。
人は歩みを止めた時、挑戦を諦めた時に年老いてゆく。
挑戦を諦めたらそこまで。
前を向いてしっかり歩こう。