よくテレビとか本とか見ていると、何かを一筋にしていた人達の話が出てきたりしますよね。

 

そういう人たちって、何かそこから一家言持っていたりして「格好いいなぁ」と思います。

 

兼好法師の徒然草の中にも、高名の木登りだったかな?そういう段がありました。

 

 

名高い木登りと言われた人が、弟子かなんかでしょうかね、他の人が高いところで作業している時には口出ししなかったのに、いざ降りてきて、低いところになって初めて「怪我しないように気をつけなさい」と声をかけるという内容のがありました。

 

それを聞いた作者が「ここまで低くなったら飛び降りても平気だろうに、なんで高い時には言わなかったのに、今更?」と尋ねると、「高いところにいる時は自分で気を付けるけれど、失敗は簡単なところで慢心して起きるから」みたいに答えるんですよね。

 

それを聞いて、兼好法師が「ああ、こいつ身分低いけど、言ってることは偉い坊さんと同じことを言っている」と感心するというお話。

 

 

 

自分の専門分野を1つ突き詰めてコツコツと努力をしていると、困難にぶつかり、そしてそれをクリアしようと努力し、それで成長するんでしょう。

 

それはどの道でも同じなんだろうなぁ、と思います。

 

そして、結局、真理は1つというか、どこの道でも共有するような何かなのかな、と。

 

ゲームの上達方法と勉強の仕方に関連性を見たりもしますから。

 

 

 

とある宗教の研究者の人が言っていました。

 

「色々な宗教をかじっていいとこどりしようとしてはダメ。1つの宗教だけを極めないと、結局はなんにもならない」と。

 

それを聞いた時、宗教に救いを求め、そしてそこで何かにぶつかって、他の宗教に救いを求める、それではダメだということなのかなと解釈しました。

 

様々な宗教自体を研究されてて、特定の宗教の信者でないからこそ見えたことなのかもしれません。

 

 

私は何を極められるのかなぁ。

 

死ぬ直前に「これ」と言えるようになりますかね。

 

 

 

私自身は何も極めてないですけど、広く薄くまんべんなくかじっていたいと思っていたりします。

 

そうしていれば、それ以上の知識がある、極めた人と話が通じますよね。

 

私はプロにはならないし、なれないけれど、最低限の知識を持っていれば極めた大変さがわかるし、プロの人に敬意を払うことができます。

 

それに、この中途半端な知識の集合体が、未来の何かの1つの極みに繋がっているのかも、と思うと、それはそれで面白いですしね。

 

人生80年としても、まだまだ人生半分くらいしか生きてないし。

 

とりあえず、焦らず、道半ばということを意識して、見えてない目的に向かって歩いていこうかと思います。