「島の長老主催の飲み会で、一木が長老の承諾なしに勝手にワインのボトルを注文した」

10数年ほど前に流れたデマ。

今日の飲み会でもその話題が持ち上がりました。

その話が出る度に私は真相を話してきました。

真相を話したのは10回目くらいでしょうか。

残念なことに真相を把握していない人達が、あちこちにデマを言いふらしているようです。

「他にもたくさん同じ話をしている村民がいるよ。そんなデマを流されているなら、ちゃんと真相をfacebook等で伝えた方がいい」

今日、その話題を取り上げた島の友人からアドバイスを受けました。

正直、そんな下世話な話を信じる人は信じればいいじゃん・・・って思います。

でも、これから先も流布されて、さらに説明する場が増える事も面倒なので、友人のアドバイスに従って真相を公表します。

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その日、島の長老主催の飲み会にお呼ばれしました。

飲み会の名目は、村議会終了後の私ともう1人の村議の慰労会でした。

3-4人のいつも一緒に飲む島の社長さん達も同席していました。

宴席には2人の女性店員も共にしました。

私の隣には二十歳になったばかりの女性店員の1人が座っていました。

宴も中頃になった頃、隣の女性店員が私に相談してきました。

「私、焼酎はちょっと苦手で。ワインが飲みたいの。ボトルで入れもいいかな?」

Aさん(主催者の長老)に聞いてごらんよ」

Aさん、初対面だし・・・」

「じゃあ、俺が聞いてくるよ」

私は席を立ってAさんの耳元で相談してみました。

「そこの女の子が焼酎が苦手だそうでワインを飲みたいとのことです。3000円のワインボトルですが、入れてもいいですか?どうでしょうか?」

「あぁ、もちろんいいよ。どんどん飲みなさい」

Aさんは笑顔で快諾しました。

「分かりました。では女の子に伝えますね」

私は長老の了解を得たと女性店員に伝え、女性店員は別のお店の女の子に3000円のワインボトルを注文しました。

余らせては失礼なので、女性店員、社長さん、私の3人でワインボトルを飲み干しました。

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宴もたけなわになり、お会計を終えた主催者の長老が急に不機嫌になりました。

「ワインボトルを頼んだのは誰だ!」

強い語気で迫力がありました。

私と社長さんは隣の女性店員に目線を移しました。

ところが女性店員は押し黙って下をうつむいたまま。

私と社長さんは顔を見合わせました。

「えっ、さっきAさんOKしたじゃんね・・・」

私と社長さんはそうアイコンタクトしました。

気まずい空気が流れていました。

その宴で最年少者は私でした。

「仕方ない・・・俺が泥を被るか・・・」

私はAさんに伝えました。

Aさん、私が注文しました。でも、注文する時にAさんにお話しをしましたが・・・」

「そんな話は聞いてない!」

「あぁ、そうですか・・・私が伝え忘れていたんですね」

兎に角、宴の空気を和らげないといけないのと、だいぶ酔った長老に言った言わないの議論をしたところで無意味なので、その場を収めることを最優先しました。

「一木さん、ほんと申し訳ない。怖くなってしまって。私が飲みたくて注文したのに、一木さんのせいになってしまって・・・」

女性店員は何度も私に頭を下げました。

Aさん、もう自分が了解したこと忘れてしまってるんだね笑 Aさんは酔ってるだけだから明日にも忘れるから大丈夫。直ぐに誤解も解けるから、今日のところは俺が悪者で終わろう」

女性店員は涙を浮かべながら私に謝罪をしていました。

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ところがAさんは翌日以降も忘れることはありませんでした。

数ヶ月後、Aさんがワインボトル事件で私の悪口ばかりを言いふらしているのを見かねた長老Bさんが、おが丸の船内でAさんと私を呼んで話し合いの場を設けてくれました。

Aさんと一木がそっぽを向いたままだったら村政が進まないだろう。お互いに話し合って誤解を解いてくれ」

Bさんの心意気を裏切る事はできないので、私はワインボトルの真相を話しました。

社長さん達がいる場で真相を話したらAさんの立場がなくなること、Aさんはだいぶ酔っていたこと、私は主催者の了解なしに勝手にワインボトルを頼むような男ではないこと。

「私がそんなことをする男に見えるんですか?今までのAさんとの信頼関係はそんなもんなんですか?だとしたら私はガッカリです!!」

仲介役のHさんしかいなかったこともあり、今度は私が強い口調でAさんに迫りました。

「あぁ・・・そうだったのか・・・それはすまないことをした」

Aさんは自らの勘違いを詫びました。

それ以降、Aさんと私は再び交流を持つようになりました。

ただ、Aさんは数ヶ月の間に私の悪口をあちこちに言いふらしたようで、Aさんと2人で会ったりAさんから電話がかかってきて村政の相談をするようになったりしましが、社長さん達との飲み会を共にすることはありませんでした。

きっとばつが悪かったのだと思います。

Aさんの体も弱っていました。

翌年、Aさんは亡くなってしまいました。

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Aさんと私の間ではすでに解けた誤解。

しかし、誤解が解けていない時のAさんや状況を理解していない1人の社長さんが、この話を流布するようになりました。

流布したい気持ちはよく分かりますが大きな誤解です。

私は人様から指摘されるような事をして謝罪し、反省することもままありますが、ワインボトル事件については100%誤解。

女性店員も内地に引き揚げましたし、Aさんも鬼籍に入りましたし、多くの村民からこの話を指摘されるので、ブログ記事にしました。

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他にもたくさんのデマが流れていますが、まぁそれらの話はいいでしょう。

信じたい人は信じればいいと思っています。

7月11日14時54分、妻の命日を迎えました。
1年前、100件ほど頂いた哀悼メッセージ。
命日になってようやくお返事することができました。
 
 
この1年間、色々な事がありました。
一言では表せません。
ただ、時間が解決してくれる事が多いのだなと実感しています。
涙は枯れません。
でも、頻度は少なくなりました。
後悔もたくさんあります。
でも、後悔を原動力に行動できるようになりました。
 
 
大きく盛ったとしても仲の良い夫婦とは言えませんでした。
しかし、この1年間で大喧嘩したことさえ良い想い出にすり替わっています。
妻の存在全てが美化されつつあります。
何だか悔しい気持ちがしますが笑
妻の仏壇の前に立つと、お寺や神社と同じように尊い存在に対して自然と拝みたい気持ちになります。
これが故人が仏になることなのかなと実感しています。
 
 
島では日中、ほぼ引きこもりの生活を送っています。
日が暮れると釣りやら海水汲みやらで行動を開始。
オガサワラオオコウモリと同じ生活パターン。
この生活を変えなければと思い、やりたいと思っていたプロジェクトを立ち上げました。
「小笠原がんサポート」
がん告知後、小笠原の特殊性を理解して指南してくれる相談相手がいなかったことが一番苦労しました。
我々家族の体験が少しでも役立つことが出来れば幸いです。
また、妻の供養にもなるのではないかと考えています。
ソーシャルワーカー的な相談窓口となります。
ホームページは工事中も多いですが、命日から公開しました。
 
 
私達家族はまだ立ち直れていない部分もあり、行政、島民、友達、先輩後輩方に頼っている事も多々あります。
心身を壊さないように無理をせず、でも着実に一歩一歩前を向いて歩き、頼るのではなく頼られる存在になりたいと思っています。
もう少し時間がかかると思いますが、温かい目で見守って頂けると幸いです。
 
 


姉弟が暮らす内地のアパートで仕事をしていた。
突然、背後から大小2冊の大学ノートがポンと私の目の前に置かれた。
「ママがこんなの遺してた。私達はもう読んだから」
「これは・・・何??」
「日記とレシピ。ママの色んな気持ちが書いてあるから」
なぜかドキッとした。
読んでいいものなのか?
「パパに迷惑をかけて申し訳ないとか、、、そんな事が書いてあるから」
子ども達の検閲は受けているようだ。
許しを得た気がした。
「わっ、分かった。読んでみるよ」
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レシピの方は母の味を娘に伝えていた。
日記の方は直ぐに読む気持ちにはなれなかった。
島に帰るおが丸の船内で、時間をかけてじっくりと読んでみた。
日記の始まりは初めて広尾病院に入院をした日だった。
最初の一週間は検査結果等の事実関係だけ。
それ以降は不安や期待、家族への想い。
ほとんどが直接本人から聞いていた内容だった。
しかし、私への想いをこの日記で初めて知った。
自らの死後、私がこの日記を読むのを想定してかのような文体。
そんな風に考えていたのか・・・
私の認識と大きくズレていた部分もあった。
反省しなければならない。
夫婦とは何なのか。
改めて思い知らされた。
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日記は最初の入院から5ヶ月間続いた。
日記をパラパラッとめくってみるとその変化が一目瞭然。
文字の筆圧が下がり震えが増していた。
妻の文字とは思えなかった。
ただ、一つだけ救いがあった。
最後の日記の日付は、子ども達2人が妻の療養生活の場に移り住んできた日の前日だった。
それまで妻は団地で独りだった。
「何だか面倒になって(日記を)休んでいた。記録、そろそろ書かなきゃなぁ」
最後の日記にはそう書かれてあった。
しかし、もう日記で記録する必要がなくなった。
愛する子ども達に囲まれながらの療養生活。
妻は自らの記録を子ども達に託した。