去年植えたお花から自然と種がこぼれて、今年は花壇を埋めつくすように新しい花が咲いた。なんなら花壇から遠く離れたところにも同じ花が咲いた。
生き物ってすごい。その生命力に圧倒される。
でも、自分はそうではなかったみたい。若さもだんだん薄れてきて、新しい命をはぐくむことがどうやらできないらしい。
38歳から始めた不妊治療。移植陰性が続き、自分がここらへんで限界だなという年齢を超えてしまった。
子供は欲しい。心から欲しいが、私はその欲求よりも「産む自分」と「産んでからの自分」をものすごく考えてしまう。
それを考えると、まだ産めるかもしれない、チャレンジする道は残されているのに足がすくんでしまう。
「自分と夫の遺伝子をもった存在に会いたい」「自分のおなかで命を育てたい」「子供を産めたことは本当に奇跡で苦労も多いが幸せ」
こんな言葉を目にすると自分の心がキリキリ痛む。
私は、そうも思うがそうも思えない。
私は女としての思考がおかしいのかな。子供を心から願い、どんなことをしても自分の手に抱くまで頑張ろう、そう思えない自分がいる。
子供は欲しい、不妊治療してまでも欲しい。そう、欲しいのに。欲しいのに怖い。
高齢出産。とくに40代の。怖い、怖い。病院が怖い。受精卵が怖い!!!!!
この苦しみ。
普通に適齢期で妊娠して、無事に出産して、苦労もあるけどなんだかんだで子育てして、そして子供が巣立って、その子供が結婚してまた子供を産んで。
そして命のリレーが続いていく。
これを当然と思って(実際妹はそうだから)自分もできると確信していた。
なのに自分にはできなかった。大多数の人が当然のごとくにできていることが自分にはできなかった。
そして年齢を重ねて、産むことはもしかしたらもっと頑張って治療して治療して、そしたら産むこともできるかもしれない。
でも、私の心がイエスと言わない。
祖父母の写真を見るとなぜか涙がとまらない。産めた自分を想像すると涙が止まらない。
きっとずっと濃淡の差こそあれ、私は一生この思いを引きづって生きていくのだろう。
植物みたいに毎年キラキラのきれいな花を、だれの力もかりずに力強く咲かせることは私にはできないのだろう。