数年前に、初めて禅体験をした経験から、
相手を想う心、さらにワンネスへ焦点を
当ててみたいと思います。
「坐禅を組んでみたい!
少し本格的にやってみたい!」
と宿泊型の禅体験に参加した時のこと。
初めての坐禅は、足が痛くて集中できず。
眠くなったり、常に考え事をしたりと
煩悩まみれの自分に気付くことになりました。
十数回のうち、一度だけ、真っ暗な中に
私という存在が体のない状態で浮いている
ような感覚に捉われ、
いつもは長く感じていた坐禅時間が、
一瞬であっという間に終わっていた
という体験がありましたが。
ほぼ、足の痛み体験となりました。
坐禅体験そのものよりも、ご住職の
お話から学びや気付きを得ることが多く。
プチ修行生活で学んだ一つには、
相手を想う慈悲の心。
ご住職のお話で下記のようなものがありました。
“天国も地獄も人々の目の前には、うどんの
入った釜があるという同じ状況がある。
違いは、長い箸を使って食べる方法のみ。
天国では自分よりも先に、目の前にいる
人の口へうどんを運び、自分もお返しを
頂くので皆お腹が満たされ幸せである。
一方で、地獄では我先に食べようとするため、
長い箸では口に入らず常に飢餓状態である。”
相手を想う心を大切にしましょう、という
お話だったのですが、これに関連して、
個人的には『相手想い』ならぬ『草想い』
を体験することなりました。
作務というお掃除の時間に草むしりをしていた
とき、なかなか根から抜けず、ブチブチと
切れてしまう雑草地帯がありました。
最初は「地面が乾いているからかな~。」と
思っていたのですが、あまりに抜けず。
「よし、草の気持ちになってみよう!」
と、ご住所のお話を聞いたばかりの当時の
私は、何か思いついたのでしょう。
集中して根の生え具合を想像しながら、
引いてみました。
すると、
するりするりと面白いように抜けたのです。
自分が草になったかのように、感覚が伝わってきました。
抜かれたくなかったであろう草にとっては
本当の意味で、『草想い』ではないかもしれませんが。
目の前の対象(相手)に集中すると、自分自身
かのように、以心伝心を感じる体験となりました。
少し突飛だったかもしれませんが、
人であれ生き物であれ植物で
あれ物であれ、相手の立場
になることは本質的なこと
だと学びました。
(画像はお借りしたものです)
身の回りで経験がありませんでしょうか?
友人やパートナーの喜ぶ顔がみたくて、真剣にプレゼントを考える。
渡して喜んでいる姿を見ることも嬉しいですが、
それ以上に、相手を想ってあれこれ準備している時が
楽しくて喜びの時間になっている。
あるいは、
電車で席を譲る。
「ありがとう」とお礼を言われることも嬉しいです
が、それ以上に、席を譲った行為に対して清々しい
気持ちになる。
もしくは、
観葉植物に水をあげる。
「元気に育ってね」という想いに応えるように
青々とした葉を見ることも嬉しいですが、
それ以上に、水をあげている最中に慈しみを感じる。
きっと
相手を想う言動の中に、内なる喜びが存在する
のですね。
その内なる喜びに意識を向けて広げてゆくと、
自分にも人にも優しくなれるので不思議です。
全ては一つ、ワンネスであるという宇宙概念の
視点からみると、
相手は自分自身であるともいえるので、
自分自身を想い、言動し、喜びを感じて
優しい気持ちになることは、
何も不思議なことではなく、当たり前のこと
なのかもしれませんね。
最近は、スマホをベッドに投げてしまい、
「ゴメン!」と口をつくことも。
自分を豊かにしてくれる身の回りの物にも感謝
と想う心を持っていたいものです(´-`*)
最後までお読み頂きありがとうございました。
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