ダイハツCOPENローカルベース東京2020だより
2021.09.16 木曜日
那須 300年の名家 三森家住宅 取材レポート
8月に那須を訪れていましたが
那須にある道の駅 東山道伊王野【どうさんどういおうの】という
舌を噛んでしまうような地名の道の駅を訪ねた帰りに
享保18年(1733)約300年前に建築されたことが判明した
那須にある名主兼問屋【三森家住宅】
国の重要文化財、を訪ねてみることになりました
写真の家が三森家住宅で
最後の当主のおばあちゃんです。
こちらのおばあちゃんですが、たまたま出かける前の、出がけの時間に遭遇したた
交渉の結果、快く雨戸を開けても家の中を見せてもらえました。
家の中に上がることはNGということで、許可をもらって
写真だけ取らせてもらいました。
*こちらのおばあちゃんには、60才になる息子さんが、たった1人おられましたが、
今年独身のまま、がんのため、逝去【せいきょ】 他界されてしまったそうです。
この日は新盆を迎えたとのことでした。
娘さんもおられたのですが、すでに他家へ嫁いでしまっていて現在はこちらにいないそうです。
長い間続いてきた、那須の名家もこのおばあちゃんで絶えてしまうということになりそうです。
とても寂しそうに話をしていただけました。
こちらが茶の間兼住まい。
隣に新しく作った現代の住宅の棟もありますが
こちらの住宅、祭事の時は現代も使用しているのだそうです。
息子さんの盆飾りがなんともさみしさを醸し出していました。
写真画像の左の端をご覧いただけるだろうか?
箪笥のような階段がありますが、階段を上がると4.5畳ぐらいの部屋があるそうです。
通常ですと300年前の古民家は、養蚕、蚕繭の仕事場などの用途がほとんどですが
こちらの三森家の2階は、床の間のある、畳敷きの和室になっていて
参勤交代の時の大名の休憩所も兼務していたこちらの三森家住宅2階は、
【茶室】として、利用できるようになっていたそうです。
三森家住宅
三森家は、関街道(旧東山道)沿いにあり、丘陵を背にして南向きのやや高台に建てられている。
当家は、江戸時代に交代名主及び問屋を勤めていた家柄である。
主屋は茅葺平屋の寄棟造りで、間口約22m、奥行約10mある。
この地方では規模が大きく、民家として代表的な建造物である。
解体修理の結果、享保18年(1733)に建築されたことが判明した。
梁は松材を用い、ちょうな削りで木材を自然のままに巧みに組み合わせている。
土台には栗材を、柱には杉と栗材を使用している。
間取りは、中央より左右に土間の部分と座敷の部分からなっている。
土間部分には「いろり」と「うまや」がある。座敷部分にはかつて6部屋が推測され、右奥には上段の間がある。
また、前廊下のほぼ中央に正面式台がある。
なお主屋前面には長屋門があり、主屋と併せて国の重要文化財に指定されている。
三森家住宅【名主兼問屋】
江戸時代、家の前を通る街道が東北道へ続く、白河の関につながっていた、重要な道路で
参勤交代の時に東北地方の大名も休憩されたという記録も残っているそうです。
屋根は当時から続くかやぶき屋根で15-20年に一度葺き替えが必要になるそうです。
現在かやぶき屋根の修理、修復は宮城県仙台市にある専門工房が全国を引き受けているそうです。
かやぶき屋根の葺き替え費用、国の重要文化財に指定されているため、国と県で9割負担、三森家では1割の負担金になるそうです。
問屋【といや】 とんやではなくといやと読む職業だそうで、初めて聞いた江戸時代の地位のため
少し調べてみました。
問屋
江戸時代の村々には、名主(あるいは庄屋)・組頭(あるいは年寄)・百姓代と呼ばれる村役人が置かれ、領主・代官との折衝や村政の運営を行っていた。
同じように宿場にも、宿場を円滑に運営するために、宿役人が存在していた。
この宿役人が業務を行うために詰めていたのが問屋場(といやば)である。
問屋場は、江戸と全国各地の間で送付される幕府の書状の継立(つぎたて)や、
参勤交代の大名行列時などに周辺の村々から動員された人足・馬の差配を取り仕切る場所であり、
街道に面した宿場の中心に設置されている場合が多かったようである。
帰りに寄った目的地の
道の駅 東山道伊王野【どうさんどういおうの】
なんでこんな名前なのか?
不思議です。
道の駅 東山道伊王野【どうさんどういおうの】
駐車場に
ソニカを駐車しました
道の駅 東山道伊王野【どうさんどういおうの】
ダイハツCOPENローカルベース東京2020 より
那須にある 名家三森家住宅の取材を
出来るだけ忠実にレポートしました。
三森家は、伊王野の下平にある。ここは、中世以降の関街道が通っていたところで、丘陵を背にして南向きのやや高台に長屋門と主屋が建てられている。当家は、江戸時代に交代名主及び問屋を勤めていた。
主屋は茅葺き平屋の寄棟造りで、間口約22m、奥行き約10mある。この地方では規模が大きく、民家として代表的な建築物である。粱は松材を用い、ちょうな削りで木材を自然のまま巧みに組み合わせている。土台には栗材を使用している。
間取りは中央より左右に土間の部分と座敷の部分からなっている。土間部分には「いろり」と「うまや」がある。座敷部分にはかつて6部屋が推測され、右奥には上段の間がある。また、前廊下のほぼ中央に正面式台がある。
なお、主屋前面には長屋門があり、いずれも国の重要文化財に指定されている。
昭和58~60年度に、3ヶ年の歳月をかけて長屋門とともに解体・復元工事が行われた。このとき発見された木枠には、「享保拾八年丑五月吉日」と墨で書かれており、現在の建物は享保18年(1733)に建てられたものと考えられている。しかし、三森家には「星宮」という氏神があり、その棟札に天和3年(1683)と書かれており、三森家の歴史は享保以前にさかのぼると考えられている。
また、「下野国那須郡下平村三森長右衛門住家」や「仙本大工半兵衛作之」と書かれたものも発見され、三森家の住所や世帯主、建築した大工の名前などが明らかになった。
那須文化協会 文章より引用
おわり
問屋場には、基本的に次のような役職があった。
|
|||||||||
この他にも、「人馬指(じんばさし)」(人足や馬を指図する役職)や「迎役」(参勤交代の大名行列などを宿場の出入り口で出迎える役職と思われる)などがあった。 |