【サングラス & コーンパイプの男】


今日4月5日は
アメリカ陸軍元帥
『マッカーサーの没日』……

日本人としては
色々と彼に対して
賛否両論もあるかとは
思いますが…… 

彼は彼なりに……
日本を深く愛した
人物であると思ってます……

占領軍最高司令官として
敗戦直後の
あの日本の混乱期から……

現在の日本の基礎を作りあげた
彼の日本への功績は
それなりに大きかったと
僕は思ってます……

『ダグラス・マッカーサー』
(Douglas MacArthur、
1880年1月26日 - 1964年4月5日)


『マッカーサー』の経歴を
簡単に書きますと……
⬇⬇⬇⬇

1.名門ウェスト・ポイント
陸軍士官学校を開校以来の
優秀な成績で卒業

2.第一次世界大戦では
最前線で二度負傷し、
米軍で最多の勲章を授与

3.米陸軍史上で
最年少の少将に昇進、
ウェスト・ポイント
陸軍士官学校校長就任


4.アメリカ・
オリンピック委員会
委員長就任

5.米陸軍史上
最年少の参謀総長就任
(副官がアイゼンハワー元大統領)

6.アメリカ陸軍
極東方面司令官就任
(在フィリピン)


7.連合軍南西太平洋方面
最高司令官として対日戦に勝利

8.日本占領の
連合国総司令部(GHQ)
最高司令官就任


9.朝鮮戦争では
国連軍総司令官就任

10.朝鮮戦争に関し、
トルーマン大統領との意見の違いで
解任され14年振りに帰国するが、
全米各地で大歓迎を受ける

11.晩年、ケネディ大統領に
ベトナム戦争について
意見を求められ、
ベトナムからの撤退を
強く主張したが
聞き入れられなかった

12.1964年4月5日逝去 享年84歳
大規模な国葬が営まれた


彼は若い中尉の頃に来日……

大山元帥や、
乃木大将に会い、
彼らの武士道精神に
感銘を受けたらしい……

その後……

占領軍最高司令官として
再来日した時……

「明治の将軍たちに比べると
昭和の日本の将軍たちは
人種が違うと思うほど程度が悪い」
と言ったそう……

戦艦「ミズーリ号」での
降伏文書調印式の直後……


おしのびで鎌倉の
鶴岡八幡宮(武道の神様)に参拝……

驚く宮司から破魔矢を
授かって帰ったそう……

帰国直前には
旧乃木邸に
ハナミズキを植樹……

今でも、
そのハナミズキは
きれいな花を
咲かせているそうです……


そんな親日家的な
側面のあった
『マッカーサー』……

敗戦直後、
日本は深刻な食糧難で、
餓死者が出始めていた状況………

『マッカーサー』は
アメリカ本国政府の
大統領と喧嘩してでも、
日本への食糧供給を強行………

南氷洋の日本の捕鯨も
『マッカーサー』の特別許可で
米軍用の重油の
無償給付を受けて再開……

捕獲した鯨肉はGHQの指令で
大部分がまず学童給食へ……

終戦後も北方領土の侵略を続けた
ソ連(ロシア)は北海道を要求……

それを知った
『マッカーサー』は
米軍憲兵隊にソ連占領軍代表
テレヴィヤンコ中将を
専用車のスピード違反という
言いがかりで拘束……

関東に配備する予定だった
米軍空挺部隊を北海道へ緊急空輸、
それでソ連は侵略を諦めた……

でなければ……

「北日本民主主義人民共和国」が
出来ていたかも知れません……

敗戦後最初の
ロンドン・オリンピックには
日本とドイツは出場は
出来ませんでしたが………

古橋広之進などを
全米水上選手権大会参加させた……

「勝っても負けても胸を張って
堂々と帰ってきなさい」

「しかし行く以上は遠慮なく
アメリカ選手を破ってきなさい
負けたらパスポートを取り上げるよ」


と冗談を行って
送り出したそう……

結果は日本選手の
世界新記録続出で、
敗戦に打ちひしがれた
当時の日本国民を喜ばせました……


そんな戦後の
彼の敗戦国である
日本への配慮は評価に値します…… 

ただ……
『マッカーサー』に関して
最大の誤解は……

「日本人の精神年齢は12歳」
という言葉でしょうね……

でも真実は……

1951年5月、
米上院軍事外交委員会で演説した時、
ラッセル軍事委員長が
「日本の様な国で
民主主義が育つのか??」と迫った……

その時 
『マッカーサー』は……

「欧米の我々がこの分野で
45歳の壮年だとすると……

日本の民主主義は
始まったばかりで、
12歳の少年と言える
成長を見守ってやろう」
と言った意味の言葉が……

ネガティブな意味としての
「12歳」だけが
一人歩きしたみたいです……

「戦後の奇跡」と言われた
日本の復興はもちろん、
日本人が優秀で
勤勉だった事もありますが……

『マッカーサー』主導の
民主化が大きな要素の
ひとつになっています……

日本敗戦後、
「昭和天皇」と 
『マッカーサー』との
感動的なエピソードをひとつ……
 
1945年8月15日、
昭和天皇による
玉音放送をもって
ポツダム宣言受諾を表明し……

日本は敗北を受け入れ、
大東亜戦争(第二次世界大戦)は終結……

8月30日、
日本の運命を握る一人の男が
厚木飛行場に着陸……

連合国軍最高司令官
『ダグラス・マッカーサー』

太平洋戦争中は、
極東軍司令官として
日本攻撃の責任者……

一度は日本に奪われた
フィリピンを奪回……

そして日本の敗戦と共に、
日本に対する占領政策を
遂行する権限を手にすることに……

来日した
『マッカーサー』は
約10日余りで、
日本軍の無条件降伏調印……

また
日本政府に事前通告なしに
東条英機ら39人の
戦争犯罪人の逮捕を命令……

9月10日、
昭和天皇を
戦犯として裁くことが、
アメリカの政策であるとの
決議案がアメリカ議会に
提出されました……

いずれ……
天皇や皇族も、
戦争犯罪人として
逮捕される可能性がありました……

9月27日、
暗殺や逮捕の恐れもある中、
昭和天皇は
『マッカーサー』に会うために
通訳一人だけを連れて
アメリカ大使館公邸へ……

大使公邸の玄関で
昭和天皇を出迎えたのは、
『マッカーサー』ではなく、
わずか2人の副官だけ……

昭和天皇の訪問の
知らせを聞いた
『マッカーサー』は……

第一次世界大戦直後、
占領軍として
ドイツへ進駐した
父に伴っていた時に
敗戦国ドイツのカイゼル皇帝が
占領軍の元に訪れていた事を
思い出していた……

カイゼル皇帝は
「戦争は国民が
勝手にやったこと、
自分には責任がない!!
従って自分の命だけは
助けてほしい!!」
と命乞いを申し出たのだった……

同じような
昭和天皇の命乞いを
予想していた
『マッカーサー』は
コーンパイプを口にくわえ、
ソファーから
立とうともしなかった……

椅子に座って
背もたれに体を預け、
足を組み、
コーンパイプを咥えた姿は、
あからさまに
昭和天皇を見下していた……

そんな
『マッカーサー』に対して
昭和天皇は直立不動のままで、
国際儀礼としての挨拶をした後に
自身の進退について述べた……

「日本国天皇は
この私であります……

戦争に関する一切の責任は
この私にあります……

私の命において
すべてが行なわれました限り……

日本には
ただ一人の戦犯もおりません……

絞首刑はもちろんのこと、
いかなる極刑に処されても、
いつでも応ずるだけの
覚悟があります」

「しかしながら、
罪なき8000万の国民が
住むに家なく着るに衣なく、
食べるに食なき姿において、
まさに深憂に
耐えんものがあります

温かき閣下の
ご配慮を持ちまして、
国民たちの衣食住の点のみに
ご高配を賜りますように」

この言葉に、
『マッカーサー』は驚いた……

彼は、昭和天皇が
命乞いにくるのだろう
と考えていた……

自らの命と引き換えに、
自国民を救おうとした
国王など世界の歴史上
殆ど無かったから……

『マッカーサー』は咥えていた
コーンパイプを机に置き、
椅子から立ち上がった……

今度はまるで
一臣下のように
昭和天皇の前に立ち、
そこで直立不動の姿勢をとった……

『マッカーサー』は
この時の感動を、
『回想記』にこう記している……

「私は大きい感動に
ゆすぶられた……

この勇気に満ちた態度に、
私の骨の髄までも
ゆり動かされた……

私はその瞬間、
私の眼前にいる
天皇が個人の資格においても
日本における
最高の紳士であると思った」

35分にわたった
会見が終わった時、
『マッカーサー』の
昭和天皇に対する
態度は変わっていた……

わさわざ、
予定を変えて
自ら昭和天皇を玄関まで送った……


これは
最大の好意の表れだった……

この年11月、
アメリカ政府は、
『マッカーサー』に対し、
昭和天皇の戦争責任を
調査するよう要請したが……

『マッカーサー』は
「戦争責任を追及できる
証拠は一切ない」と回答……

『マッカーサー』と
昭和天皇は
個人的な信頼関係を築き、
この後合計11回に
渡って会談を繰り返し……

『マッカーサー』は
昭和天皇は日本の占領統治の為に
絶対に必要な存在であるという
認識を深める結果に……

当時、
ソ連やアメリカ本国は
「天皇を処刑すべきだ」
と主張していたが……

昭和天皇の態度に感動した
『マッカーサー』は、
これらの意見を退けて、
自ら天皇助命の先頭に立った……

また当時、
深刻な食糧不足に
悩まされた日本に対して、
アメリカ本国に何度も掛け合い、
食糧物資を支援させることに
成功し日本の危機を救っている……

1951年4月16日、
『マッカーサー』は
日本を離れることになった……

日本を占領するため
来日してから6年後のこと……

そして1964年4月5日
『マッカーサー』は
84歳でこの世を去った……

ところで……

『マッカーサー』と言えば……

「虎の門ヒルズ」の下に
通っている道路を
通称「マッカーサー道路」と
呼ぶのをご存知ですか??


当時、
GHQ最高司令官
『マッカーサー』が
建設を命じたという伝説ですが……

計画決定から
実に68年もかかって、
2014年3月29日に
虎ノ門〜新橋間の
約1.4キロが結ばれました……


「マッカーサー道路」は
正式には「環状第2号線」の一部……

神田佐久間町〜虎ノ門までの
開通部分は「外堀通り」……

終戦直後の1946年、
戦災復興院が、
神田佐久間町から
新橋まで約9.2キロ、
幅100メートルの道路として
都市計画決定したのが始まり……

GHQが虎ノ門の
アメリカ大使館から
東京湾の竹芝桟橋までの
軍用道路を要求したなどの
俗説もあったことから……

いつしか
「マッカーサー道路」と
呼ばれるように……

これも実しやかな
都市伝説らしいですが……

彼『マッカーサー』に対しては
日本の中でも
色々な評価はあります……

ただ……
『マッカーサー』を
親日に変えた昭和天皇との
エピソードなど一切なく……

現在の教科書では
淡々と伝えられている
敗戦直後の日本……

激動の時代に
戦勝国と敗戦国の将として
対峙した二人のドラマは
事実のようです……

毎度今回も
かなり長くなりましたが……

そんな今日は
『マッカーサーの没日』に
ちなんだお話でした……

素敵な一日をお過ごしください✨