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<長崎>居住のバラック、周りは白骨散乱 被爆体験語り継ぐ

毎日新聞 8月8日(木)20時32分配信

<長崎>居住のバラック、周りは白骨散乱 被爆体験語り継ぐ

被爆体験を話す下平作江さん=長崎市桜町で2013年8月8日午後1時、三村政司撮影

 「ここのバラックに住んでいました」。旧ソ連が原爆投下から1年後の1946年9月に撮影していた長崎の写真。長崎市の被爆者、下平作江さん(78)が指さした先にはバラック群が写っていた。当時11歳。この焼け野原から立ち上がった記憶を呼び起こしながら、下平さんは「ソ連は当時、これだけの恐ろしさを知っていたのだから、核兵器を持たない方向へと進むべきだった」と厳しい口調で語った。

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 写真の焼け野原は長崎市・旧駒場町。被爆前、ここに下平さんの自宅はあった。爆心地から約300メートル。自宅付近にいた母と姉は黒こげになって死んだ。下平さんは約500メートル離れた防空壕(ごう)で7歳の妹、1歳のいとこと共に被爆した。岩にたたきつけられた下平さんが気がついた時には、黒こげになった人や肉がちぎれた人、眼球がぶら下がっている人たちがあふれていた。通っていた城山国民学校(現城山小)は原爆で壊れ、46年春から山里国民学校(同山里小)に通った。

 その頃、生き残った近所の人たちとバラックを建てて暮らし始めた。真っ赤に焼けたトタン板を拾って建てたので「あかがね御殿」と呼ばれた。下平さんたちのように子供だけが生き残った家族や、朝鮮人の家族など5世帯が15畳ほどの小屋に身を寄せた。ここで雨露をしのぎ、進駐した米軍が捨てた食べ残しの缶詰を拾い、ソーセージを川で洗って口にした。周囲には白骨が散乱していた。

 蚊帳もなく、妹は蚊に刺された腹をかき、その部分が腐るほどうんでうじ虫がわいた。「取ってくれんね」。妹は泣いたが、暗くて取ってやれなかった。金がなくて医者を呼ぶこともできなかった。「頑張って生きていこう」と励まし合ったが、妹は17歳の時、貧しさと病気を苦に列車に身を投げて命を絶った。

 【上記引用文】

壮絶すぎる。ムゴすぎる。人災だった事。

実体験者じゃないからこそ、耳を傾け、

貪欲にその悲惨さを吸収し、伝えるべき事。

「そうゆう事あったんだなあ」で済ませない事を

自覚していきたい。