皆さん、イマジナリーフレンドって知ってますか?

以下、ウィキペディアの「解離性同一性障害」の項目より。


なお、欧米にはいイマジナリーフレンド(imaginary friend=想像上の友人)という概念があるが、これは幼少の子供に普通に見られる現象で成長するにつれ消失するのが普通である。イマジナリーフレンドが強いストレスにより交代人格化することはあり得るが、単なるイマジナリーフレンドを持つことでこの疾患と診断することはできない。このことは、DSMの定義にも明記されている。

※ウィキペディア:解離性同一性障害


つまり解離性同一性障害、多重人格は自我同一性(自分の経験、記憶を全て自分一人が担っていると自覚する状態)を失い人格が「解離」するが、イマージナリーフレンドはあくまでその人格者がimagine=想像で創り出した友人であり、解離性同一性障害のように記憶が解離、分断されることはないと言うことでしょう。


ここで同じくウィキペディアのイマージナリーフレンドの項を参照したいところですが、この概念は西洋ではそれなりにメジャーらしいですが日本ではマイナーですよね。私も今まで知りませんでしたから。そう言う訳で日本版ウィキペディアには「イマージナリーフレンド」に関しての記述がないので外国版ウィキペディアから引用したいと思います。


Imaginary friends, also known as "imaginary companions", are pretend characters often created by children . Imaginary friends often function as tutelaries (or perform a tutelary function) when they are engaged by the child in play activity [citation needed ]. Imaginary friends may exist for the child into adolescence and sometimes adulthood . Imaginary friends often have elaborate personalities and behaviors. Although they may seem very real to their creators, studies have shown that children understand that their imaginary friends are not real.

According to several theories of psychology, an understanding of a child's conversations with their imaginary friends can reveal a lot about the anxieties and fears of that child as well as the child's aspirations and perception of the world . Some children report that their "imaginary friends" manifest themselves physically and are indistinguishable from "real" people, while others say that they only see their friends in their head.

※WIKIPEDIA:Imaginary friend


・・・分かりにくいので和訳。


イマジナリーフレンド、想像上の友人は「想像上の仲間」としても知られ、子供達によって創造された人格だとよく言われる。イマジナリーフレンドは度々、子供が活動する上で(必要とされた場面において)、保護者(あるいはそれに代替する役目を行う者)としての機能を果すような存在として存在させられる。イマジナリーフレンドたちは子供が思春期、時には成人期に入るために存在するのかもしれない。イマジナリーフレンドは多くの場合精巧に造られた個性、振る舞いを持つ。彼らは彼らの創造者、つまりイマジナリーフレンドを創り出した子供にとっては実在するかのように感じられる場合にも関わらず、子供達は彼らのイマジナリーフレンドが本当は実在しないと言うことを理解していると言う研究もある。

いくつかの心理学の学説によると、イマジナリーフレンドと子供たちとの間で交わされる会話の理解は、その子供の向上心や世界の認識と同様に不安や恐怖についてたくさんのことを明らかにすることが出来るとされている。何人かの子供達の報告例によると、彼らの「イマジナリーフレンド」は彼ら自身が肉体的に現れ、「実在の」人々との区別がつかないことがある一方、彼らは子供たちの頭の中でしか知覚できないと言う者もいる。


所々意訳していますし、そもそも訳が合っているか自信がありませんが私なりに和訳致しました。

要は、イマジナリーフレンドとは幼少期の子供たちが生み出す、彼らの(実在の保護者とは別に存在する)保護者であり相談相手であると言える。がしかし、その存在は酷く曖昧で、まるで実在するかのように認知されるケースもあれば、あくまでその子供の前のみに現れ他者には認知され得ないケースもある。(学説も諸説ある?)

・・・と言うことでしょうか。

前者の、まるで実在するかのように他者にも認知されるイマジナリーフレンドが、主体者(イマジナリーフレンドを生み出した子供達)とは別の記憶を持つように、すなわち「解離」するようになったものがいわゆる解離性同一性障害なのではないかと考えられます。


さて、本題。

何が言いたかったのかと言うと、私にもイマジナリーフレンドみたいな人物がいるんです。私は解離性同一性障害ではありません。記憶が途切れることはありませんし、はっきりと他の人格が私の中にいる訳ではない。けれど、「人格のような存在」が存在する気がするんです。私はよく自分と対話します。自問自答とも言えるでしょう。しかし、私の心の中で受け答えしてくれる人物は、私が辛い時に励ましてくれる人物は、すんなり私自身であるとは言い難いのです。しかし、人格と言うほどはっきりした存在ではない。何故ならば、その存在は私はそれが私が演技して、つまり私ではない他者がいると想像して受け答えしている存在であると自覚しているからです。よってその存在は酷く曖昧であり、解離性同一性障害のようにはっきりと存在してはくれない。

解離性同一性障害の方に失礼であると言うことを重々承知で言いますが、いっそ解離性同一性障害ならば、その存在ははっきりと人格を持ち、もっとしっかりと私と対話して貰えるのではないか・・・と思うこともあります。もちろん、記憶が分断される恐怖、自分の中にしっかりと他者が存在しているかもしれない恐怖、場合によっては自分と言う存在の希薄化が起こりうるかもしれない恐怖があると言うことも理解しているのですが。

日頃から常々思っているのですね。果たして私の中にある人格のようなものははっきりと人格であるのかそうではないのか、と。その人格を自分でコントロールして自分と対話していると言う、所詮は自問自答であると言う自覚を持っているのですから、もし「彼らが人格であるかないか。」と尋ねられれば私はノーと答えるでしょうが・・・。

そこで出会ったのがこの「イマジナリーフレンド」と言う言葉。正確には合致しないかもしれないですが、一番近いような気がしたのです。広義は人格であり、狭義には人格でない存在。それがイマジナリーフレンド・・・、と解釈したいと思います。もちろん、私の中の彼らが完全なるイマジナリーフレンドであるとは言い難い(自問自答の域を出ない)のかもしれませんが。


ちなみに、私の中には数人いますが一番近いのは彼、翔(ショウ)で、私が授業中、音に苦しんでいる時に声をかけてくれました。ただ、名前などは記号でしかないと思っておりますので、長い間名前などはなく、つい最近名前をつけたゆえに今でも呼ぶことは少ないのですが。この辺りも彼らが私自身であり完全なるイマジナリーフレンドと言い難い理由でもあります。

結局私は、一人で悩むことに耐え切れず、誰かが側にいると言う錯覚を─イマジナリーフレンドのように「想像」しているのではなく─自分で生み出しているだけなのかもしれませんね。


最終的に何が言いたかったのかよく分かりませんが。ここまで読んで下さり有難うございました(^-^)宜しければ、コメントにて貴方の意見も聞かせて下さいね。

尚、解離性同一性障害、イマジナリーフレンドについての解釈はあくまで素人である私の解釈であると言うことを留意下さいませ。