視力、教えて ブログネタ:視力、教えて 参加中


先週の日記からの続き

http://ameblo.jp/coolkuru/entry-10314622945.html



<前回の日記のあらすじ>


合気道を習おうと7つの教室を見学した私。

どの教室もそれぞれに良いところがあり、どの教室が良いか決めかねる。

迷いながらも、直感で「ここかな」と感じたところがいいんじゃないかなーと思う。


直感で、決めた教室をもう一度見て決めてみようと思うのでした。


--------------------------------

と、いうわけでその道場をもう一度見に行ったのですが、なーんかイマイチな感じでした。

最初に見たときほどの感動がないぐらいならいいのですか……

「あれ?」と思うこともあったりで。


いや、「あれ?」と思うのは、二度目見学に行く前から思っていました。



見学した当日は感動とともに帰っていったのですが、

数日後、ふいに頭の中に、言葉が浮かんできました


「あれれ?先生、掃除をしてなかったゾ???」


稽古が終わってすぐ生徒さんは掃除をされていたのですが、先生はされていなかったのです。



先生たるものは掃除はしないもの。掃除は生徒がするもの。

そういう考えもあるとは思いますが、私は先生が率先して掃除はすべきだと思います。

生徒には「掃除をする」という決まり事を守らせておいて、先生が自身がその決まり事を守っていないのはちょっと。

年金の掛け金を払えと国民には言っておいて、自分たちは払わない政治家のようです。言葉に実が伴わないというか……


ちなみに掃除をする理由は、「お互いが気持ちよく稽古できるように」とのことですが、心を重要視するならば、

心を伝えるためにも背を見せるはものすごく大切なことだと私は思うからです。


※でも、無料で教えて頂く代わりに掃除をする、それはありだと思います。(昔の師弟関係ってそうじゃないのかな?)

しかしながら、この教室は月謝をしっかり取ってらっしゃる・・・・・・



でもね、掃除をしなかったのは ”たまたま” だったのかもしれない。


そうも考えてみたのですが、2度目の見学のときもやっぱり掃除をされていませんでした。

掃除道具の数が足りないのかなーとも考えてみたのですが、しっかり道具はあまっておりました……


いつも、掃除をしない……確定だなー、と思うとともにやっぱりかと思った瞬間でした。


期待していただけにガッカリでした。



そして、こうも思いました。ちょっとでも自分的におかしいことがあると思いつつも、相手をいい人だと思おうとしてしまうのだろう、と。

ちょっとでもおかしいところがあるのに、その人からサッと離れられないのは何故なのだろう、と。

人間誰だって忘れたり、ミスったりすることがある。だから、それらを許容していくべきじゃないのかなと思ってそうしてきたのですが……



でも、過去、それを許容してきた結果は散々でした。


初めての就職、面接して、二週間以上経過しても受かった、落ちた、の返事は来ず。

忘れているだけかな、と思って問い合わせた、入社した結果……私は、ありえないぐらいひどい目に会いました。

2ちゃんねるに、ひどい目に会った会社の方たちが書き込みをしていたのですが、それらは全て本当のことで。

2ちゃんねるの中でも最低ランクに位置づけられていて。

2ちゃんねるは、いろいろ言われているけれど、情報として信頼できるものもあるんだなと思った瞬間でもありました。

(他にも、書けばいろいろとあるのですが、長くなるので割愛します。)




なんか、進歩ないな、と今回の件で思いました。

過去のことを思い出し、私は、過去と何も変わっていないなと思いました。おかしいなと思いつつ、そこに吸い込まれていってしまいそうになっている……

そして、おかしいと思ったことすらない場所では、嫌なことなんてなかったなということも思い出した。


私は、もっと思いやりのない人間にならなければならい。いや、思いやりがないんじゃない。そういう判断力が普通で、私が甘かったのだと思います。その甘さを捨てなければならない。


そして、こうも思った。「やらない」「捨てる」という決断ができなかったのだと。

最近、そういう決断が大切だと話してくださった方がいらっしゃったのですが、私という人間はまさにそれが出来ない人間だったんだと思いました。

なんでだろう……執着が強いのだろうか……

思いやりを持たないという呪縛にやられている?……

人を信じたい???


人を信じたいのだと思う。でも信頼できない人はできないことはわかっている。なのに私はいつまで同じ過ちを繰り返すのかしら……


「あれ?」と思ったら、そこには近づかない。そう、決断しなきゃ。

そこがいいところだったらどうしよう……という想像はしても仕方ないと思わなきゃ。

後で確かめればいいこと。その瞬間確かめなくても大丈夫。

後で結果はわかる。結果、よい場所だったとしても後悔しない。

そう、大丈夫よ!!!

今までだって、そうだった、うん。


私は、ちょっとでもおかしいと思ったら、捨てる、しない、という決断をします!!!!!

(やばいとこいって何かトレーニング積んでこなきゃいけない気もしますが、まずはこれを出来るようにします!!!!)



もさ子さんだって「誰が何と言おうと、嫌なものは嫌って言ったほうがいいよ。」と言ってくれている!

いろいろな苦い経験をされているもさ子さんの言葉、心に響きます。

http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=58709&log=20071127


そして、この日記もなんだか大切な気がするのでメモメモ。

http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=58709&log=20071117



あと、念のため書きますが、率先してお掃除される先生ももちろんいましたよ!

格好良いな!と思いました。

-------------------------------------------------


で、前置き長くなりましたが、ブログネタの視力です。

目は非常によくないです。0.0以下です。

眼鏡及び、コンタクトレンズないと見えません。


そして、今回の合気道教室の見学の話ですが、実は一度目をコンタクトレンズで、二度目を眼鏡で見学しました。

二度目を眼鏡にしたのは、タロットカードに、「眼鏡をかけていってみて」とアドバイスをもらったからでした。


すると驚くべきことが!

ちゃんと視力を両方ともあわせたのですが、眼鏡の時のがよく見えるではありませんか!

私は目に乱視が入っているのですが、レンズに乱視を矯正する力がないので当たり前といえば当たり前かもなのですが。



一度目の見学のとき、先生格好良かった!


なのですが、二度目の見学のとき、あれほど格好良く見えた先生が、とても霞んで見えました。

正直、他道場の先生のが、とっても格好よかったといいますか……(そこは眼鏡で見学しました)


見えないところが見えてくるとそういうこともあるんだなと思いました。

よく見えるって素晴らしいことだと思いました。


ちなみに一日目見たときよく感じたのは、初めて見たものが多かったせいかもしれません。袴や道場(見学一件目はスポーツセンターで行われていました)。

非日常です。なんか、それだけで感動していたのかも。

見慣れてくると、また違って目がこなれてきたのかもしれません。



というわけで、見る目ないなーと感じている方は、眼鏡やコンタクトレンズ変えるなり作り治しするなり、してみてはどうかなーと思いました。



あと、見学に対してひとこと。


合気道教室は複数回見に来てもいいというところが多々あるので、何回も見に行ってみるといいかも。

特に最初にまわったところとか。目が慣れてくる(笑)と、また違ったふうに感じられます。


後は先生の袴を脱いだ姿を見る。柔道着みたいな感じになりますが、その姿の先生を見た方がよいかも。

袴って、人の粗を隠す効果が高い気がします。体の線が隠れるせいかもしれませんね。

柔道着は、体にぴったりなので、隠しようがないといいますか。


あと、生徒さんとお話してみるのもよいと思います。

生徒さん、けっこういろいろ教えてくれます。



以上、皆様、見学を楽しんでくださいねー♪



--------------------------------------

今日のメモ、露天の鷹さんの2009.7.25の日記より


今日で明日を殺さないことだ
愚かな対応がある
今できないから、明日も不可能だとすること。
やってこない明日をあれこれ心配するアタマ。

最近ハマっているものは? ブログネタ:最近ハマっているものは? 参加中

今、合気道を習おうと考えているのですが、その教室探しにはまっています。


見学しているととてもおもしろい☆


ちなみに、合気道にもいろいろな流派があるのですが、下記のような感じでまわりました。

・大東流合気柔術六方会(1道場)

・合気会(5道場)

・養神館合気道(1道場)



流派が違えば違うのは当たり前なのでしょうけれど、

同じ流派でも教え方や、道場においてあるものが微妙に違っていておもしろいですし、

スポーツセンター、個人の道場のように、場所が違うとまた感じがが違って面白い。



でも、流派が違っても、道場が違っても、すべての人が同じようなものを求めているのもまた、面白かったです。

その同じようなものは、なんというなか、精神の向上、私的には悟りへの道とでも申しましょうか。

精神的に成長しようという姿が全ての教室の先生の言葉から感じられて、それがとても新鮮でもありました。

(まあ、たまたまそういうところだったのかもしれませんが)

やり方は違っても、求めるものは同じなのかもしれません。
柔道や、剣道でもそれは同じなのだろうか……聞いてみたい気がします。


見学って楽しい☆☆☆


のですが、悪い意味でもはまっています……

どの道場も魅力的で、迷っております。
それぞれの個性があり、その様々な個性に惹かれてしまうのです。

そして、知らなかった流派や教室をさらに知ると、そこのがいいのかなーと思いさらに見学に行った方がいいのかなーと思ったたり。
・心身統一合気道
・大東流合気柔術の六方会以外の流派

でも、私は、どれだけたくさんの道場を見学すれば、満足するのだろう、とも思います。
直感的にここだと感じるところがなければその意味もあるのでしょうが、
「ここかな」と直感的に感じた道場もありますし。

最後は直感なのでしょうか。

もう一回、その気になる教室を見にってから決めたいと思います。



---------------------------------------------


そして、私はこうも思う、今回の件で選んだ教室について、もし、教室が期待はずれで辞めることになっても後悔そして、私はこうも思う、今回の件で選んだ教室について、もし、教室が期待はずれで辞めることになっても後悔することはないだろうと。

それは何故なのだろう?と分析してみたりします。

実は、直感的にここかなと思った教室は見学2件目でした。
2件目で、決めることに抵抗があった私は、さらに5つの教室を見学。
5つの教室をまわって、やっぱりそこが気になる私。

さらに、教室をまわることもできるけれど、まわらなくてもたぶん後悔することはないと思う。



2件目でそのまま決めることに抵抗(迷いかも)が、あったのは何故なのだろう……とも思います。

自分の直感に自信がないから?

他にもっといいところがないかなーという意識の現われ?(これは違うかも)

他の教室を回っていろいろなことを学ぶ必要があったから?

他のところの様子がわからないから?

後悔したくないから???



とりあえず、情報収集(見学)を十分にして、実際に見て、感じたことが、後悔しないという思いにつながっているようです。

洋服もそうやって決めたものは失敗でも、後悔することってない気がします。


迷いも直感の一種なのかな???

迷い、これでいいのかなーはもっと情報収集しろという心の声???

情報収集は直感を確実にするためのプロセス???


あと、ひとつ思ったのは私は、迷うことが好きみたい。

迷いの過程(情報収集)はとても楽しいことでもあります。


直感で決められない自分に対してこれでいいのかという疑問を持っていましたが、それはそれでいいのかもしれないとも思うのでした。


どーも、迷うことにもはまっているようです(笑)


------------------------------------------------

【メモ】 迷いを解消しないうちに、事を進めると、後悔しているっぽい。

     迷いは楽しいもの

    迷いは、まだそこへ行ってはいけないという警告

    迷いの影に学びの影あり

ずる休みしたいとき自分が病気になる?家族を病気にする? ブログネタ:ずる休みしたいとき自分が病気になる?家族を病気にする? 参加中



ずる休みするさい、家族を病気にしたことも、自分を病気にしたこともありません。

というか、ずる休みしたくても、ずる休みしたことってないかも……


そういうときは、本当に病気になっている気がします。


ずる休みできる人って、けっこう健康なんじゃないのだろうか……と思ってみたりします。

理由は以下の通りです。


------------------------------

私は5年ぐらい前から慢性疲労症候群です。

最近、なんでこんな病気-慢性疲労症候群-になってしまったのかを考えます。


思うに、自分の心の在り方にかなり問題があるような気がしています。

というか、あるんでしょうね……


最近、真剣にその問題に取り組まなければ、この身体の問題は解決しないんじゃないかという気持ちが芽生えてきています。

なので、がんばって考えます。



【理由その①:人の力を気軽に借りられない】 



今年の二月頃、穴口恵子さんのオープンチャネリングに行ったのですが、そこで他の人に言っていて心に響いたのが、

「もっと他の人の力を借りましょう」ということでした。


私という人間は、なるべく人の力を借りずに生きていくことを親に言われてきたせいか、やれることは自分でやろうとして生きてきました。


でも、最近はそれでよいのかなーと思います。

全ての人間がとは言いませんが、生きる意味をもとめている人達にとって、自分を求めてくれる人がいないということとても悲しいことではないのかなと。

生きる意味って、人に感謝してもらえることによって初めて感じられることのような気もします。

だから、もっと気軽に、色々な人やモノ(商品)の手を借りた方がいいのかなと。


あと、いろいろな商品やモノの手を借りた方が、人生に潤いが出るような気もしますし。



動けなくなったら、もう必然的に人の手を借りなければならないわけですから、

そういう状態を強制的に作り出されていたというか、

無意識の自分が作り出していたのかもしれません。


- 自身のスピリットの成長のために -






【理由その②:自分のために生ききれない】 


あと、穴口さん言葉で響いてきたのが「もっと自分のために生きましょう」ということでした。


断ってもよい状況で、やりたくないことまでやってしまっていたりしてるのも、原因かも……

あと、断りたいときとかにも。


そういうときに限って特に熱が上がってくるような気もします。

自分でも都合のいい熱だなあとは思います。



私は基本的に人からの誘いは断れないタイプです。

断ると、嫌いな人でも罪悪感を持ってしまいます。


先約があったりすれば、そこに正統な理由が存在するからいいのですが、

そうじゃないときは、断ると罪悪感です。なので、断れない……


熱が出てしまうのは、断れない私のために、ウィルスが協力してくれていて、正統な理由を作ってくれているような気がしています。

ウィルスさん、ありがとうです☆



その人の時間はその人のもの、それは当たり前のこと。

だから、自分の約束が他の人に断られても私は正直何も思わないのに、自分が罪悪感を持つのは何故なのだろう……



自分の時間は自分のもの、それも当たり前のことにしたい。

自分が気乗りしないときに、人からの誘いを断ることは悪いことではない。

だから、断こと対して罪悪感を持つなんて、おかしなこと。


上記、を自分の確定事項に出来たとき、ウィルスさんも断る理由を作る必要がなくなるわけなので、病気になる率が減るかもしれません。


------------------------------


思いついた理由は、今のところ二つですが、もっとあるのかもしれません。

それは、みつけたときにまた書きたいと思います。




<ちょっと思ったことメモ>


タロットでいう、「到達点に来た知性なの」 かな。

陰極まれば陽となるとは、いいますが、極まっているときが知性の到達点なのかも、と思ってみたりする。


今回の例でいうと、私は人のために生きてきて、私はそれが極まっているために、行き詰まりを感じている。

次へのステップは、自分のために生きる。

自分のためにずっと生きてきて、それを極めて、行き詰まった人は、今度は人のために行き始めるのかしらね。


なんでも自分ですることに対しても、極まっているのかもしれません。

だから、人の手を借りるということにシフトしていくのかな、とも思います。


中庸も到達点に来た知性に入るのかな???