私が伊那に赴任したのは平成24年4月のこと。
土地勘が全くないので「伊那市史 現代編」(昭和57年11月、伊那市史刊行会発行)を読んで、伊那の勉強をしていたちょうどその頃、こちらのiPhoneアプリに出会いました。
「高遠ぶらり」です。(参考:高遠ぶらりホームページ)
こちらは、伊那市高遠の古地図などと現在のマップを重ねあわせ、古を回想しながら街歩きができるアプリ。
伊那市史を読んでいたこともあり、私はどんどんその魅力にハマっていったのですが、みなさんはお使いになったことがありますか?
試しに開いてみましょう。
いつも私が楽しんでいるのは、「伊那谷ぶらり」の中にある「伊那街市街地図[昭和18年(1943)〕」です。
当時の地図の上にチェックマークのようなピンが立っていますね。
こちらには、昔の写真など、その場所ごとの情報が入っています。
※ 現在の伊那弥生ヶ丘高校
そして、青い丸がありますが、こちらが現在地の表示。
私の勤務先は伊那合庁なので、そこが青くなっています。
拡大しますよ。
「えっ!」
初めて見た時、私はのけぞりました。
昭和18年当時、伊那合庁の敷地は南北2つに分かれ、南側は「伊那病院」の敷地だったようです。
私のデスクがある場所は、病院の跡か…
(北側は、郡役所跡を利用した、地方事務所などからなる県上伊那総合事務所でありました。)
おもしろい。
はてはて、「伊那病院」とは、現在の「伊那中央病院」の前身なのでしょうか?
そこで登場するのが伊那市史です。
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(P55下段)
大正十一年伊那町荒井に郡内有志の出資によって伊那病院が設立された。医師六名、年間入院患者三五〇余人、外来患者二、八〇〇余人で病院として入院できる初めての施設であった。その当時伊那町には開業医一四人、歯科医一二人、薬剤師八人、産婆七人、看護婦一一人がいた。
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そして、伊那中央病院については、別途記載がありました。
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(P192上段)
1 伊那中央総合病院
昭和二十二年、七月、錦町に町立伊那中央病院として開設、同二十六年十一月水神町の現位置に移転、(略)
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つまり、町立病院ができたのは戦後になってからで、昭和18年時点での「伊那病院」とは、郡内有志の出資でできた民間病院であったというわけです。
おーい、ついてきてますかぁ?w
その後、この病院がどういう経過をたどったのか、いろいろ調べてみましたが、私にはわかりませんでした。
そんなことを繰り返していたある日、昭和18年地図のある部分に目が留まりました。
伊那商業学校?(※ 右側の広い土地の上部にあります。)
そういう名前の学校、あったっけ。
伊那商、伊那商…
現在の地図にしてみると…
あぁ、伊那公園の隣の野球場だ。
するってぇと、現在の野球場は、伊那商業学校の校庭?
伊那商業学校は、これ以降、どうなってしまったのでしょう。
気になった私は、現地に行ってみることにしました。
伊那公園の界隈を散策していると…
野球場と庭球場のあるエリアの東側、外周道路沿いにありました。(地図)
「伊那商業学校建立跡記念碑」です。
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上伊那の中心である伊那町に商業学校をという松島肇、吉川広志、大森利球治など諸氏の運動により、昭和十三年文部省の設立認可を得て財団法人長野県伊那商業学校が設立され、ここ朝日ヶ丘に校地として伊那町より寄贈と貸与を受けて、「士魂商才」を教育の理想に掲げて昭和十四年四月本科一、二年二学級、第二本科一学級をもって開校した。
爾来十年太平洋戦争は次第に商業教育を困難なものとし、遂には国家の方針等により廃止の止むなきに至り、昭和十九年四月生徒募集を中止し、昭和二十三年三月第六回卒業式を以て、その歴史の幕を閉じた。
この十年間、この朝日ヶ丘の学舎を巣立った我々同窓生六三四名、「士魂商才」の大旆を掲げたこの地は我々の魂の故郷である
平成五年秋
伊那商業学校卒業生有志一同 建之
小林多賀男書
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この地にはそんな歴史があったんですか。
その後、伊那における新制高校の成り立ちを伊那市史で調べましたら、伊那北だけじゃなく、伊那東や伊那南も存在したことが判明!
現在の伊那西と併せて東西南北が全部あったとわかったのですが、その話はまたの機会に。
この日はお天気がよく、青い空に白い雲がぽっかりと浮かんでいました。
戦時中、志の高い若者たちが、どんな気持ちでこの空を見つめていたのだろう、などと考えながらのお散歩…
当時の若者たちの賑わいが聴こえてくるかのような、さわやかな一日でした。 (momo)
追記)高遠ぶらりの画像の使用については、伊那図書館 平賀研也館長さんのご承諾を
いただきました。ありがとうございます。
土地勘が全くないので「伊那市史 現代編」(昭和57年11月、伊那市史刊行会発行)を読んで、伊那の勉強をしていたちょうどその頃、こちらのiPhoneアプリに出会いました。
「高遠ぶらり」です。(参考:高遠ぶらりホームページ)
こちらは、伊那市高遠の古地図などと現在のマップを重ねあわせ、古を回想しながら街歩きができるアプリ。
伊那市史を読んでいたこともあり、私はどんどんその魅力にハマっていったのですが、みなさんはお使いになったことがありますか?
試しに開いてみましょう。
いつも私が楽しんでいるのは、「伊那谷ぶらり」の中にある「伊那街市街地図[昭和18年(1943)〕」です。
当時の地図の上にチェックマークのようなピンが立っていますね。
こちらには、昔の写真など、その場所ごとの情報が入っています。
※ 現在の伊那弥生ヶ丘高校
そして、青い丸がありますが、こちらが現在地の表示。
私の勤務先は伊那合庁なので、そこが青くなっています。
拡大しますよ。
「えっ!」
初めて見た時、私はのけぞりました。
昭和18年当時、伊那合庁の敷地は南北2つに分かれ、南側は「伊那病院」の敷地だったようです。
私のデスクがある場所は、病院の跡か…
(北側は、郡役所跡を利用した、地方事務所などからなる県上伊那総合事務所でありました。)
おもしろい。
はてはて、「伊那病院」とは、現在の「伊那中央病院」の前身なのでしょうか?
そこで登場するのが伊那市史です。
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(P55下段)
大正十一年伊那町荒井に郡内有志の出資によって伊那病院が設立された。医師六名、年間入院患者三五〇余人、外来患者二、八〇〇余人で病院として入院できる初めての施設であった。その当時伊那町には開業医一四人、歯科医一二人、薬剤師八人、産婆七人、看護婦一一人がいた。
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そして、伊那中央病院については、別途記載がありました。
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(P192上段)
1 伊那中央総合病院
昭和二十二年、七月、錦町に町立伊那中央病院として開設、同二十六年十一月水神町の現位置に移転、(略)
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つまり、町立病院ができたのは戦後になってからで、昭和18年時点での「伊那病院」とは、郡内有志の出資でできた民間病院であったというわけです。
おーい、ついてきてますかぁ?w
その後、この病院がどういう経過をたどったのか、いろいろ調べてみましたが、私にはわかりませんでした。
そんなことを繰り返していたある日、昭和18年地図のある部分に目が留まりました。
伊那商業学校?(※ 右側の広い土地の上部にあります。)
そういう名前の学校、あったっけ。
伊那商、伊那商…
現在の地図にしてみると…
あぁ、伊那公園の隣の野球場だ。
するってぇと、現在の野球場は、伊那商業学校の校庭?
伊那商業学校は、これ以降、どうなってしまったのでしょう。
気になった私は、現地に行ってみることにしました。
伊那公園の界隈を散策していると…
野球場と庭球場のあるエリアの東側、外周道路沿いにありました。(地図)
「伊那商業学校建立跡記念碑」です。
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上伊那の中心である伊那町に商業学校をという松島肇、吉川広志、大森利球治など諸氏の運動により、昭和十三年文部省の設立認可を得て財団法人長野県伊那商業学校が設立され、ここ朝日ヶ丘に校地として伊那町より寄贈と貸与を受けて、「士魂商才」を教育の理想に掲げて昭和十四年四月本科一、二年二学級、第二本科一学級をもって開校した。
爾来十年太平洋戦争は次第に商業教育を困難なものとし、遂には国家の方針等により廃止の止むなきに至り、昭和十九年四月生徒募集を中止し、昭和二十三年三月第六回卒業式を以て、その歴史の幕を閉じた。
この十年間、この朝日ヶ丘の学舎を巣立った我々同窓生六三四名、「士魂商才」の大旆を掲げたこの地は我々の魂の故郷である
平成五年秋
伊那商業学校卒業生有志一同 建之
小林多賀男書
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この地にはそんな歴史があったんですか。
その後、伊那における新制高校の成り立ちを伊那市史で調べましたら、伊那北だけじゃなく、伊那東や伊那南も存在したことが判明!
現在の伊那西と併せて東西南北が全部あったとわかったのですが、その話はまたの機会に。
この日はお天気がよく、青い空に白い雲がぽっかりと浮かんでいました。
戦時中、志の高い若者たちが、どんな気持ちでこの空を見つめていたのだろう、などと考えながらのお散歩…
当時の若者たちの賑わいが聴こえてくるかのような、さわやかな一日でした。 (momo)
追記)高遠ぶらりの画像の使用については、伊那図書館 平賀研也館長さんのご承諾を
いただきました。ありがとうございます。