平安京は

光源氏のような

貴族がきらびやかに暮らしていたのか?


そうではない


まず平安京

右京の衰退


「右京」が衰退した理由は、地形的には京都盆地西南部が低地となっていて埿(うき)と呼ばれる泥深い沼・泉が多く、住居地としては適さないため開発に手間取る一方、建設された家屋や道路も荒廃してしまい、平安時代中期以降には再び耕地化してしまったからだとされています。

 そのため、「左京」の場合は街路の名称・位置ともに現在まで踏襲継続していますが、「右京」の場合は耕地化され他ことからほとんどの街路が無くなってしまったようです。

右京は人が住める状態ではなかったんですね💦

加えて、干ばつによる凶作。国司や郡司が道端のご遺体を運んでいたようです。


平安京は群盗による

犯罪に悩まされていた

(朝廷への求心力への低下)

それを

平安京の今で言う警視庁

エリート集団 検非違使が

取り押さえていた

ただ検非違使は

優秀な人を絞りすぎて

人数が足りなかった


ただ群盗とは

地方の役人がほとんどで

京の役人に年貢を

不正に取られていた人たちがほとんど

だった


なので

やられた分

京へ行き

盗みをはたらいていた


やられたらやり返すと




京では別に

貴族が増えすぎていた


平安京を

開いた桓武天皇の子どもは30人

その子どもも50人ほど子供がいるという感じで


要するに貴族の就職先が平安京になくなってきた


そこで

貴族は徐々に地方へ行き

権威を発揮するようになる

貴族が地方へ行き

武芸に秀でた一族と結婚する

これが武士のはじまりである


平清盛も源頼朝も

先祖は天皇である