徳川家康


日光のご当地コーラ

家康なんやな😲


徳川家康が尊敬していた人物は

源頼朝と

ドラマの中でも家康

吾妻鏡読んでいたな

家康も頼朝も日光信仰だったと

東照宮ね


関ヶ原の戦い 62歳

豊臣と死闘を繰り広げたのは 70すぎ


生まれてすぐ6歳のとき

今川家へ人質

今川家へ行く途中

織田家に奪われて人質になったりした


今川家(駿府)では

義元に気に入られていた

英才教育をうけていた

人質としては恵まれた状況

(近年の新解釈らしい)

幽閉とは違う

しかしその間も

松平家の本拠地 三河では

家臣たちが辛酸を舐める思いで暮らしていた

(今川への献上などで)

家康が三河に視察に来ると

家康の手を取って喜んでくれたとのこと

晩年家康は岡崎でなく駿府に隠居したとのこと

この時期の人質生活が

楽しかったのかもしれない

人質生活の影響で待てる性格になったのかもしれない

家康が着ていたあの金の鎧も

家康が若い頃実際着ていたらしい

目立ちすぎるやつ


今川家 織田家に負ける

※桶狭間の戦い

信長はわずか3000ほどだったとか。誰の目にも義元有利と思われましたが、信長は義元の本陣に奇襲をかけることに成功。義元は討ち死にをして、今川軍は敗走します。

家康 三河の大樹寺へ身を寄せる

※厭離穢土欣求浄土

汚れたこの世をこそ

浄土にするように目指せとのこと


妻の瀬名と子供ふたりが

人質同然で今川領に残される

今川氏真に妻子を返してくれと要求するが

断られ続ける

そこで家康は氏真の従兄弟(鵜殿氏)の城を攻めて、子ども2人を捕虜とします。この2人と妻子を交換するように求めたのです。

今川に最も忠義をつくしていた

鵜殿を蔑ろにしたら今川の他の家臣も

不審がってしまうからな

家康の作戦がちやと思います


余談

江戸城半蔵門は

服部半蔵の屋敷があったところに

建てられた

伊賀越え等で

家康のもとで活躍

家康が天下をとったあとは

江戸城の警護で

忍びの者の仕事をつくった


三河一向一揆

一向宗門徒と家康達との戦い

家康家臣達が一揆側についてしまう中

なんとか勝利

いつの時代も宗教というのはあるが

戦国時代の宗教は

今とは比べ物にならないほどの

影響力があったのであろうな


三河守となった

家康を武田信玄は気にするようになる

信玄は駿府(今川領)をとる

なぜ武田信玄は同盟破ってまで

今川領に攻めたんかな?

今川義元が弱体化して

いいタイミングやと思ったからですかね


鵜殿長照の妹

お田鶴の方

おんな城主として曳馬城を守った

大河でみたが泣きそうになりましたわ💦


武田信玄と家康で

駿府をかけて色々あったが

今川氏真は

北条に身を寄せ

生き延びたようやな

そのまま家康以上に長生きする


大河みると私情入ってしまったが

良かったと思う

今川義元に自分以上に

買われていたと思った

家康への嫉妬もあったのですかね

なんとなくわかります笑

家康は人質として

命のかかった少年時代を過ごしていたから

なんというか肝のすわり方が違ったのだと

思う


→瀬名は築山殿というかたちで無事

岡崎城に迎えいれられる

が、今川氏真と従兄弟関係にあった

瀬名の立場は岡崎城では微妙なものであった

信長の長女徳姫が

瀬名の息子信康の妻として迎えいれられる

今川の血を引く瀬名としては耐え難い日々だったかもしれない

今年の大河ドラマでは徳姫を

乃木坂の久保史緒里さんが演じてくれている☺

ありがたい


1570年家康は息子に岡崎城を譲る

※家康は浜松城へ

家康との夫婦仲が悪くなっていたのか?

瀬名は息子と岡崎城に残った

徳姫が夫と姑の悪行を書いた手紙を信長に送る

※徳姫が長女と次女を産んでいるが

男児を産んでいないため

瀬名や信康との関係がぎくしゃくしていたか

浜松城では家康が側室と男児を

もうけていたので

瀬名はあせりを感じていたかもしれない


徳姫からの訴えをつよくうけた

信長は

瀬名と信康の死罪をつよく要求したとする説もある


織田家勢力拡大


今川家から独立 

織田へ入り

織田家康と名乗る


1570ごろ

信長家康連合軍

武田信玄に大敗

武田信玄(風林火山ね)は桁違い


しかし武田信玄が1573急死

武田軍弱まる

※山梨県甲州市の恵林寺が信玄の菩提寺


長篠の戦い(武田勝頼)

武田軍との雌雄を決する闘い

徳川 織田連合軍38000

※織田30000+鉄砲(南蛮貿易)

武田の騎馬隊に対して

信長は鉄砲を用意

信長の圧勝

家康に力の違いを見せつける

→徳川、織田の家臣になる


少しずつ攻めて

1582 武田家滅ぼす


兵や鉄砲を貸してくれた

信長に対しジレンマ


家康が

家族をとるか

信長をとるか

→家臣に頼み築山殿(瀬名)を殺害or自害

信康に切腹させる

要は家康は信長をとった

欲より社会性をとった

※信康(と瀬名?)は武田(勝頼)

と組もうと考えていた

織田派の家康と親子で対立していた

信康は鷹狩りの途中で僧を殺したり

少々目に余る行動をみせるようになっていた


※瀬名が悪妻だったという

記述は江戸時代以降の記録

にしか残っていなかった 


戦国時代の画像や

動画は

当然残っていないので


後の人間によって

いくらでも改良 改悪できる


戦国時代

瀬名を悪妻とした

記述はないようなので


瀬名=悪妻

というのは江戸時代以降の人が

作ったイメージの可能性が高いと思う

ドラマほど良妻でもなかったと思うが笑


これもひとつの

可能性です


どうする家康

前半終了ですね

泣かされました


後半は

おもにムロ秀吉との絡みに

なるのでしょうか※








織田信長が

明智光秀の謀反により亡くなる

※武田勝頼討伐後

家康が信長を富士道中で

手厚く接待

(富士山の見える場所に即席で部屋をつくったり

1日泊まるためだけの部屋に金をあしらったりした)

信長はそのお礼に

家康を安土に呼び

お礼の接待しようとする

その時の幹事が明智光秀

その接待でなんらかの不手際があり

※どうする家康では家康が(鯉が臭う)と言い

もてなし担当の光秀は

信長の怒りを買ってしまい

その接待幹事の途中で

戦に駆り出されてしまう

その恨みで信長を本能寺で

打ったのかもしれない


家康絶望して

切腹しようとする

→伊賀越え


豊臣秀吉が明智光秀を打ち取り

関白にスピード出世 

※これにより秀吉は部下に褒美として

簡易を与えられるようになる

(絶対的権力)


1584 小牧・長久手の戦い

(日の本を二分する大合戦)で

秀吉の甥 秀次と

→和睦

※家康VS秀吉の

唯一の戦い


家康は

秀吉に臣従するようになる

※豊臣家ナンバー2に

秀吉から関東を

秀吉は力のある家康を

遠ざけたかったかも


1598

秀吉死後

当時家康は五大老

石田三成と争う

石田三成を追放し

家康が豊臣家最強に


家康対石田三成(まだ小さい豊臣秀頼)

関ヶ原の戦い

6時間で勝利


1603 家康征夷大将軍に

1605 秀忠に征夷大将軍をゆずり

豊臣に対し徳川の世であることを

示す

→豊臣怒る


1614

1615

大阪夏の陣 冬の陣

対 大きくなった豊臣秀頼(と淀君茶々)

家康自害を考えるほどのピンチ

だが家康勝つ

江戸幕府の地位を盤石に

年号を元和とする

(内線が終わったとの意味)


どうする家康では

お市と柴田勝家を助けに来なかった

家康に対し思うところがある

淀君がラスボスというのが私の予想

違ってたらごめんなさい


ラスボス茶々は北川景子さんでしたね

豊臣を利用し母お市(信長の妹)

を助けに来なかった家康を恨み

自分の子 秀頼を

茶々の理想の武将に育て上げたという内容でした

結果 秀頼は多くの武将から信頼される

戦をなくしたい家康からみたらモンスターを

作り出してしまったという流れ


大阪夏の陣の時点で

豊臣が徳川に勝てるはずもなく

秀頼の死により豊臣家が滅ぶ

※千姫は徳川に返される

淀君と秀頼は大阪城で自害

千姫は3代家光の姉

結構長生きする


家康が成し遂げたかった

戦のない世の中が実現したわけです


神の君から

光る君へ