それは忘れちゃいけない ちゃんと向かい合わなければ乗り越えられないこと 少しづつ文章にして私の中で乗り越えていこう
昭和38年7月
東京のとある病院から逃げるようにでてきたカップルとへその緒のついた赤ん坊
病院に払うお金もない二人は 工事現場の飯場にたどり着いた
そして職場と当面の生活費を手にしたまだ若いカップル
翌朝起きてこない2人を起こしに行くとそこには赤ん坊だけが残っていた
その赤ん坊が私だ
名前もまだないまま・・・戸籍もないまま・・・ 私は16まで戸籍もないまま 飯場で暮らすことになる
誕生日は・・・今となってはあっているのかどうかもわからない
そして一年が過ぎ・・・・1歳 当時あまりにもひどい状況の乳児院に預けられることもなく(あまりに悲惨な状況に連れ帰ったらしい)。
出稼ぎで働きに来てる大勢の人々の中であの日へその緒がついたままだった赤ん坊もコロコロ太って元気に1歳の日を迎えようとしていた。
「こんなに可愛く育ったんだから、見つけて渡してあげれば喜ぶだろう。」 と、どうにかあの日赤ん坊を置き去りにした2人を見つけ出した。
その時の実の母の言葉は「もう、育てた○○さんに似ているし、私たちはいらない。」 いらないで済む問題とも思えないのだか・・・済んでしまったらしい。
当時のことを知る人はもう身のまわりにいないので・・・今となっては詳しく聞いてみたかったような気もする。
でも、子供の頃や若い頃は・・そんな話は聞きたくなかったので避けててわからないままになってしまった。
そんな感じで、当時鳶職人だった男性と、飯場のまかないの夫婦が私を育てることになったのだった。
今はもういないので聞けないけれど・・・。誕生日が本当のものなのかとか・・・姉妹はいるんだろうかとか・・・たまーに思う。
当時の写真はまだモノクロで・・・沢山の若い出稼ぎのお兄さん達の真ん中でコロコロ太った私が写っていた。
写真だけでも残っていれば・・・(写真はすべてDV離婚した元旦那に焼かれてしまう)
飯場での記憶は・・・・火事になったことととか・・・竜巻で屋根がふっとんだこととか・・・大きな犬といつも一緒で野犬の群れとも遊んでいたこととか・・・
ちょこちょこ現場が変わるたびに飯場も移動していくので・・・幼い頃は、けっこうあちこち転々としている。
小学校時代
常識から外れた人たちの中で育つと・・・私みたいな感じに育つのかも
特に昔の飯場なんてのは・・・流れ流れてミタイな人たちが集まっているわけで・・・世間一般の常識ある人たちからはけっこう疎まれたりしちゃうんだよね。
私を育ててくれた人も・・・義理の父にあたる人はかなりの酒乱だったし・・・背中には筋彫りがあったから(確か昇り竜と夜叉の顔だったかな?お酒飲むといい色に赤くなるんだよね)。
義理の母も自分が生んだ五人の子供を置いて家をでた人だから、けっこう変わってたかな。
養母自身も幼い頃に津波で母親を亡くし小学校も行かせてもらえず丁稚奉公し戦後は米軍基地で働いたりしていたらしく漢字も平仮名もあまりかけないのだが、カタコトの英語を知っていたり。
私が小学校に入ったころは、まだまかないをしていたけれどそのうち病院などでの家政婦になり(今はない仕事ですね) 病院などへのとまりの仕事ばかりであまり顔をあわしたことはなかったが・・・・。
記憶の中の飯場のおじさんたちは・・・いい人だけどみんなお酒のみばかり。
小学校の入学お祝いにカメラ買ってくれた人もウイスキーばかり飲んでて糖尿病で早く亡くなっちゃった。
当時で一万ぐらいお小遣いくれる人がたくさんいたようなおぼえがある。
でも、みんな家族もなく流れてきた人たちばかりだ。指のない人や癖の強い人がたくさんの中で育った。
私の小学校入学を期に、育ての親となる2人は飯場生活にピリオドをうつ。
はじめて住んだの家の大家さんが一年足らずで亡くなり、若夫婦にすぐ出て行くよういわれとりあえず競輪選手の宿舎のような小屋に住んでた覚えがある。
ほとけのざの小さな紫の花がたくさん咲いていたのを覚えている。
そして2年生の時に県営住宅に当選?し転校した。それにしても・・・当時私は戸籍がなかったわけで・・・・そんな私が小学校に通えてしまうのも不思議な気がする。
けっこういい加減なんだよね。いろんなことが・・・・。高校に入るために戸籍をつくったんだけど・・さすがに高校は戸籍が必要らしい。
そのときも事実のまま籍が出来るわけではなくまったく関係のない人に頼んで代理人とし、その人から養子縁組みたいな形だったんだけど・・・なんか納得行かない気がする。
こじつけで知らない人が元の親になるよりも、不明なら不明のままが、正しいのではないのかなぁ。
だから、私は小学校の家系図みたいな授業は大嫌いだった。
物心のついたころには何かというとこの捨て子がと義理の母に言われて育ったので・・・・確か4~5年の記憶ですでに戸籍がないことも知っていた。
当然暗かったかも・・。でも私にとってはそれが当たり前の日常だったので普通に過ごしてたかな。
ただ普通に友達が親に髪の毛結ってもらってきたりお弁当作ってもらってきたリするのをみるとなんだか自分でやればいいのに~みたいな気分がしてた。
今思えばうらやましかったのかもしれない。幸せそうな風景が苦手だったころ。
今もその傾向は残っている・・幸せな家族団らんが映し出されるようなドラマは苦手だ。
自分には子供を捨てた血が流れているから絶対子供なんていらないし結婚もしないと思ってたなぁ。
結局こんな戸籍のおかげで就職でも苦労したし・・・初めて結婚を考えた人の親戚には「そんな何処の馬の骨ともわからない子なんて。」ということでうまくいかなかった。
小学生ぐらいの時には酒乱の義父のおかげで夜中に飲み屋に迎えに行ったり、警察がきたり、へんなやくざが家に来て私にまでおどしかけたりで・・・かなり鍛えられたかな。
親の愛情の大切さ
私に自信がないのは・・・たぶん。親の愛情を知らないから。
全てを包み込む愛情を私は知らない いろいろな人を見てきて思うには・・・・しっかりとした肉親の愛情で包まれて育った人にはかなわないなぁってこと。
幼いころの無条件に包んでくれる愛情を経験している人は、何があっても受け入れてくれる場所があった人は芯からの自信みたいなものがあるような気がします
自分はやれば出来る。
失敗しても受け入れてくれる人がいる。その安心感がある人とない人の違いみたいのを感じるときがたびたびある。
私の周りには結構複雑な状態で育った人もいるけれど・・・共通しているのは不安感みたいなものかなぁ。
表現は難しいけれど・・・ どうせ誰も見てくれないし・・落ちるところまで落ちてやれみたいな子も預かっていたけれど・・・かなりの虐待を受けていたらしく預かったばかりのころはどうせ心配してくれる人なんていないんだからつかまってもいいって口癖のように言ってたっけ。
どんなに苦労していても親の大変さを見ていたり愛情をしっかり感じて育った人たちは私には真似できない強さ。どっしりとしたものを芯にもっている。
私は今でこそ、守らなきゃいけない子供達からの愛情を感じながらしっかり地に足をつけて生きられるようになったけれど・・・ 以前はやはりどうにでもなれって感じで生きてしまった。
怖いものなんてなんにもなくて(これ以上落ちようがないと思っていたから)大胆で、そのくせ傷つきやすく他人の中で生きていたからまわりの顔色を実際は凄く気にしている。 失敗したら見放される。そんな想いだったのかもしれない。
見返してやる。そんな心しかなかったのかもしれない。 そのくせちょっとした優しさには敏感すぎて・・・裏に嘘があっても少しの優しさを大切にまもってしまう。本当の愛情に包まれた記憶すらない。
びくびくした臆病すぎる私 誰にも頼れず全て背負い込むしかない私 今自分の子供達を見ていて・・・なんて自信に満ち溢れているんだろうって感じる。
いろいろなことに挑戦して、失敗して。さりげなくもたれかかってきたり、髪結んで~。とか明日早いから起こしてね~。とか・・・。仕事で遅い私の変わりに、夕ご飯作らされてたりで大変だろうに当たり前に毎日過ごしていく力強さ。 私には出来なかったことばかりだ・・一応苦労はさせているけれど愛情は伝わっているんだと思っている
私もいい加減強くなりたいのだけれど・・・・まったく自分に自信がもてないまま・・・・。そんな自分を変えたくていろいろ挑戦しているのだけど・・・・
↑は数年前に書いた文章・・途中いろいろあって長いこと中断してきたけれど・・いろいろ思い出しながらもう少し振り返って綴っていこうと思う
もしかしたら・・産みの親?の目に留まることもあるだろうか・・・・自分が捨ててしまった命の行き先を少しは考えることがあるんだろうか・・・・
