多くの友人を亡くしてきた。
それも、いずれも自殺でである。
そして今年の夏まで生きていれば
私は52歳になる見込みだ。
19歳の時に障害者となったことをあえて度外視しても、
私は今まで実に役立たずのことばかりをしてきた。
そしてまたこんな文章も何の役にも立たないだろう。
第一下手くそな文章であることも言うまでもない。
そしてこれからどんなに生きるにしても
私は相変わらず役立たずのままだろう。
ここからが私の屁理屈の出番だ。
老子も言っているように、
人間が生きるということは「無用の用」であり、
所詮役立たずだ。
それでいい。
少なくとも私はそれでいい。
たとえば何百年という時の経過を待つまでもなく、
私が生きていたことは人々に忘れ去られるだろう。
たとえ何百年も経っても人々の記憶から消えないような偉人であったとしても、
それが一体何だと言うのだ。
どうでもいいという言葉が適切でなければ、
大勢に影響はない。
人が生きるということは、
つまりはそういうことなのだ。
こういうことを、
J.クリシュナムルティなら「自己憐憫」と言うだろうか。 あるいは人によっては厭世的と言うだろう。
まあいい。
自己憐憫でも厭世でも何でもいい。
それでもとりあえず私は自殺する気はない。
運が良ければ明日も生きているだろう。