多くの友人を亡くしてきた。

それも、いずれも自殺でである。

そして今年の夏まで生きていれば

私は52歳になる見込みだ。

19歳の時に障害者となったことをあえて度外視しても、

私は今まで実に役立たずのことばかりをしてきた。

そしてまたこんな文章も何の役にも立たないだろう。

第一下手くそな文章であることも言うまでもない。

そしてこれからどんなに生きるにしても

私は相変わらず役立たずのままだろう。

ここからが私の屁理屈の出番だ。

老子も言っているように、

人間が生きるということは「無用の用」であり、

所詮役立たずだ。

それでいい。

少なくとも私はそれでいい。

たとえば何百年という時の経過を待つまでもなく、

私が生きていたことは人々に忘れ去られるだろう。

たとえ何百年も経っても人々の記憶から消えないような偉人であったとしても、

それが一体何だと言うのだ。

どうでもいいという言葉が適切でなければ、

大勢に影響はない。

人が生きるということは、

つまりはそういうことなのだ。

こういうことを、

J.クリシュナムルティなら「自己憐憫」と言うだろうか。 あるいは人によっては厭世的と言うだろう。

まあいい。

自己憐憫でも厭世でも何でもいい。

それでもとりあえず私は自殺する気はない。

運が良ければ明日も生きているだろう。

私は父を、

「自分の損得しか考えないのか」となじった。

そして父も母も黙っていた。

自分の損得しか考えていないのは私の方だった。

その前日私は、

損を被(こうむ)る気の毒な農家の野菜をを少しでも買おうじゃないかと動いていた。

しかし、そんな野菜はとっくに出荷停止になっていて売っていなかったし、

何の成果も上げられず、

一方で自分の欲望に任せて2万円近くもする中古の携帯電話機を注文した。

そして今日、

その代金引換便のために父にそのカネを預けた。

しかしその時も父は、

何も言わなかった。

そして今日も私は、

一見また人のために動いていた。

成果はまったく上がらなかった。

父が本当に何もしていないかどうかは知らない。

しかし私はと言えば、

自分の2万円を寄付した方が早かったということに気付いた。

父は私が何をやっているか知らない。

しかし私から見れば、

一見じっとしていて自身の生活を目一杯切りつめて倹(つま)しく暮らしている父や母の方が

ずっと偉く映る。

そして父は黙っていた。


私は30年以上の精神障害者である。

東京に住んでいる。

もともと震災前から主治医は

もうこれ以上薬は増やせないと言い張って譲らない。

そして私は、

少しオーバーに言えば分単位で薬の飲み方を常に調整していた。

そしてもう数年、自宅から一歩も出ていないひきこもりである。

その私は今、

たびたび起こる地震と原発の問題に、

完全に精神の平衡を失っている。

薬を増やしてもらえないし何を言われるか怖いので主治医とももう半年以上面会を拒否している。

以前から余分にあった薬を、

時に許容量を越えて飲むこともある。

なるべく平常通りの生活をするよう心掛けている。

それが私にできることの精一杯である。

テレビはもともと嫌いなので、

もうだいぶ長い間まったく観ていない。

ラジオのみ聴いている。

少なくとも民放ラジオ局にお願いしたいのは、

通常通りの放送をして戴きたいということである。

震災に関する情報はNHKラジオが十分にやっている。

私は十分に参っている。

あえて言わせて戴くなら、

私のような人間も被災者であることを忘れないで戴きたい。

自由であろうが不自由であろうが知ったこっちゃない。



純粋だろうが不純だろうが知ったこっちゃない。



道を踏み外そうが正しかろうが知ったこっちゃない。



美しかろうが醜かろうが知ったこっちゃない。



死のうが生きようが知ったこっちゃない。



得をしようが損をしようが知ったこっちゃない。



愛だろうが憎しみだろうが知ったこっちゃない。



好きだろうが嫌いだろうが知ったこっちゃない。



真実だろうが嘘だろうが知ったこっちゃない。



金持ちだろうが貧乏だろうが知ったこっちゃない。



成功しようが失敗しようが知ったこっちゃない。



気づこうが気づくまいが知ったこっちゃない。



悟りだろうが迷いだろうが知ったこっちゃない。







そんなことは私の知ったこっちゃない。


 


 


 


しかしそれにしても、である。

まあ主に若いひとに多いのですが、「人生前向きに」という方が多いですね。

どうしてでしょうか??

私などからすると、「後ろ向きじゃあいけませんか?」と言いたくなります。

一度、精神障害者を長くやってみるといい。

精神病院には、人生に疲れきっているひとばかりですから。

そんなひとから見ると、

つまり私のように、完全に「ドロップアウト」してしまったひとからするとね。

「人生前向きに」なんて、お子様ランチに見えるのよねえ、はっきり言ってしまえば。

ある程度歳を食ってくれば君たちにもわかるかもね。

人生というのは、少なくとも真面目に生きてきて、ドロップアウトしてしまうとね、

自然とスピードダウンしたり、「後ろ向き」にもなるというものです。

別に、成功している方がうらやましいのではありませんよ。

いわゆる「悟る」というのは「前向き」ではありません。

自然になることですよねえ。

いつまでも走ったり歩いたりしていては疲れる。

座ってみたらいかがでしょうか?

いま居るその場所に。

ねっ転がるのもよし。

腰をすえて、自分を見つめてみてはいかが?

まあ、余計なお世話ですが・・・。

ふう!疲れた。