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この美しき世界で

写真やラジオ配信、音楽活動などを通じて
様々な人間性を切り取り、生きることが興味深くなる
そんな言葉を紡いでいきます

今回はいま、必要な能力である
「直勘力」について書いていこうと思います

 

私たちは普段
外界から、あらゆる「感覚情報」を

 

日々受け取って

生活をしています

勘がいい人

本質を見抜ける人と
評される人の特徴は

直感の感度がよく
直勘で判断できる人のことです

 

情報を受け取る感性や

センスがいい人


観察眼や情報収集能力があることを
直感がいいと言ったりします

 

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また、さらに高次の判断をする為に
勘を作動させるには

受け取った情報をもとに
 

意識・無意識の双方で
判断していく必要があります

こうした、スピーディーな

情報処理や統合能力
発想力の事を

直勘力があると表現します


こうした能力が高いと

物事の本質を

見抜きやすくなるのです

日々、生きているだけでも私たち
実に様々な情報に触れています

しかし、感性を意識的に

働かせていかないと


感覚は衰えていくばかりなのです

 

特定の感覚だけを酷使すると
他の感覚が鈍くなったり
認識力が低下することもあります

日頃から、まんべんなく

五感を使って


世界を感じ取り

自分の感性を

良好に保っておくことが

直感力を高め


勘を発揮する為に

必要な状態を維持できるのです

 

その直感を活かしていくためには
情報や感覚を

受け取るだけではなく
 

選択の参考にして

判断の精度を高めていく
取り組みが必要になります

 

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自分の直勘を信じて、行動してたり
 

経験を積み重ねて

自分の判断の振り返りをしたり
 

経験値をから

知恵を生み出していく

内省的教養が
 

直勘力の判断精度を高めることに

繋がっていくのです。

これからの社会では
不確定な状況や、変化の早い
予測がしにくい社会へ

突入していきます

 

そうした世の中の変化に

日々感度を上げて
向き合っていくためにこそ

自分から判断を行える
 

直勘力の重要性が

増していくのです。

 

直勘力は、自分の本心や

気持ちを偽っていると
鈍ってしまいます。

 

自分が何を求めていて
何を成していきたいのか

その本質を自分で日頃から見つめて
行動の指針にしていく行為こそ

直感を磨き、直勘力を高めていく
方法だと言えるでしょう

 

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最近、「相手のことを理解しましょう」

という言葉に対して
 

なんだか本質的な部分を

捉え切れていないのではないか

と思うことがあった。


今回は「理解と納得は違うよなー」

というお話


理解をするというのは

相手の主張に対して


客観的事実を理解して把握する

という事らしい。


しかし納得に関しては

相手の主張を理解して


それを<認める事>

まで含まれるようだ


つまり、理解はしているが

納得はできない


という
一見矛盾しているような発言も


「あなたの言いたいことは分かるが、認めることはできない」


という相手の主張であると説明ができる




こうした理解はできても
納得いかない事が

世の中には意外とたくさん

存在しているのではないかと

この違いを考えている時に

ふと思ったのだった。


頭では分かっても

心では

感情では

立場的に

価値観的に
 

その主張を
認めることはできない、と。


こうした理解できることに対して

何らかの阻害要因が


納得に至る過程を

妨害しているのではないか

とすら、考えてしまう。


相手の主義や
主張を個人的な要素や


価値観でブロックしてしまう事は

実は相手の立場を、本当に理解する手前で


境界線を引く行為なんじゃないかと思うのだ


それによって、納得をせずに理解して

分かった気になるという事が

なんだか、簡単で便利な現代的な


「見出し的理解」
なのだと思う

 

理解をして
納得をしないことは


本質を理解する上で

浅い相互理解で終わってしまい


本質をお互いに
分かり合えないまま


関係性が
希薄化してしまうのではないか

そんな弊害さえ

あるように思える

納得をしようとする

その気構えが


相手を理解するという言葉の裏で

見過ごされてきた

 

理解の境界線を超えた
一歩踏み込んで分かろうとする態度に

なるのではないかと思うのだ

作業を効率化して

なるべく手がかからないように
あらゆる作業を簡略化してきた現代

 

自動化され、効率的になった生活では
多くの手作業を省略し

 

私たち現代人の可処分時間を
増やすことに成功した

しかし、肝心の
「時間ができたら何をしよう?」

と思わず迷ってしまうくらい
時間を持て余した時

閉塞感や虚無感を打ち砕き
打開策を見出すとしたら

自分の体を動かして
何かをするという行為の中に
含まれているのではないかと
そんな気がしてしまう

 

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家電や、機械で手軽にすぐできてしまう事が
昔と比べるとはるかに増えた状況で

自分の体を使い、何かをするという

基本的かつ、人間らしい行動を
改めて見つめなおすことで

生活に人間らしさや
生活体験が増えていき


充足感を感じられる時間を
過ごすことが出来るようになるだろう

 

 

便利な機械が

生きる自分たちから作業する喜び
を奪い取ってしまったと考えることもできる

 

日々を丁寧に生きる事と
自分の行う作業を疎かにしない事は
密接に結びついていると言えよう

自分の人生の中で
どこか空虚な部分が増えたと

感じた時には
 

自分が今、生活上で囲まれている
家電、機械、電子機器などによって

 

手間を奪われることによって
「人間らしく過ごせたかもしれない時間」を

デリートされたのかもしれないと
考えることが出来るのであれば

自分でわざわざ作業をすることが
丁寧な生き方に通じていく事が想像できるだろう

 

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そうして、何気ない一つ一つの
作業に想いを持って生きていると

人生がちょっとだけ
有意義になった気がしてくるから
不思議である

 

お金や、地位、権力や名声などではなく

明日から、もしくは今まさに
この瞬間から変えていける

丁寧に生きるための
身近な秘訣なのかもしれない

日本人は特に"「普通」であること"
を大切に考える傾向がある

 

自分の内部に

普通である要素を見つけて肯定し

自分が周りと比べて
「はみ出し者ではない」と

無意識のうちに思いたい欲求が
あるのではないだろうか?

 

では、なぜそのように「普通であること」
にそこまでこだわるのだろうか?

 

 

それは、普通であることが
 

その他大勢に属するという

「味方の多い自分」
という安心感を欲する

心理が影響していると考える

 

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「普通であること」は

自分の存在を
その他大勢と同化する事であり

 

違いを遠ざけて

同属である安心感と信頼感を

得ようとする行為といえよう

 

同属であることは
大多数に属する事であるが

生存戦略の上では
自分の生存確率を高める
という点においては有利な面がある

 

生き残っている他者と同調することで

自分も生き残れる要素を
取り入れることが出来て

危険を回避できる可能性が
高まるからだ。

 

しかし、自分自身の持つ
他とは違っている部分を
隠してまで

「普通」というもの求めるのは

雲をつかむ様な形のない概念に
支配され続けることを意味する

 

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自分の価値判断が
普通かどうかで
捉える無意識の刷り込みが
起こる為である

 

そして、奇妙なことに
完全に「普通な人」
という存在は
この世にはいない


求める普通像というものを
一人ひとり

 

細かく聴いて尋ねたら

特定の誰かの姿がぱっと
浮かび上がってくるだろうか?

「THE・普通」と言われる
人物が存在しただろうか?

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普通の要素を
多く持っている人はいる

 

しかし「普通要素100%の人」は
今のところ科学的にも
発見されていないようである

 

なぜなら、時代は変化するし
人は変わりゆく環境にも
柔軟に適応できる生き物だからだ

 

普通という状態のままで
あり続けることができないのは

 

成長したり、変化したり
退化したり、老いたり

刻一刻と日々

 

変化をしながら
生活をしているからである。

 

普通という幻想を
追いかけ続けると

自分の特徴や
武器になり得た要素を
切り捨ててしまう
危険性もあるだろう。

社会で生きていく上では
普通という概念を
常識の範囲内で

ある程度、自分の中に
取り入れておくことは
大切である

 

 

しかし、普通という考え方を
持たないとおかしいとか

普通じゃないから
異端だというように

普通以外を

排除しようとする思考は
 

集団で少数を迫害する構図が
生み出されやすく

 

危険思想化する恐れがあるのだ。

普通を追い求める無意識の行動は

そうした時に安心を与え
安全性を高める効果が

あるものの

 

行き過ぎると他者を攻撃したり
差別や迫害を生み出してしまう

 

普通でいる事は

いい面だけではなく
負の側面もあることを理解した上で

他者との相互理解や
自己理解に活かしていくと

 

日本人特有の繋がりの強さに
転換していけるのではないかと

思うのだ

 

「普通」に対する
個々人の捉え方にしても

理解とそれを扱う人の知性が
必要であると言えるだろう

 

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『自分探し』や

 

『自分の再発見』
 

といった言葉があるように

自分らしさ、という事について

最近、多くの文脈で
語られているなー
という印象を受けます

自分が何者であるか、分からない
という悩みに対しては

逆に「自分というものはない」
と考えてみるのをお勧めします

というのも
そもそも自分像というのは


自分が認識している

「内的自己像」と
 

他人がイメージする

「外的自己像」があります

そして、自己像に対しては
何が正解というものはないのです

 

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ただ、変化をしていく過程の
起伏を含めた

振り幅の事を自称 ”自分” と
呼んでいるだけなのです


仮に固定した自分
という定義がもしあるとすれば
変化するのを止めて

完成した自分というものを
肯定し続けることによって形成された
外壁であると言えるでしょう


自分というものを自ら強く定義して
個性を確定させると

そうではない
自分というものとの

 

終わりのない戦いに
身を投じることになるのです

自分というものは
変化しやすく、移ろいやすい
という性質を理解しておくことで

自分論争の真っただ中で
「自分らしくない」などと言って
消耗する必要もありません

また、自分に対して注視しすぎるあまり
周りが見えないというのは

 

本当の意味で
自分が見えていない状態だと言えます


自分を表す性質は
表と裏、表裏一体で存在しており

つまり、自分の認識する自分も
他者がイメージする自分も

両方合わせて
自分というものが出来上がるのです

内的な自分という存在も
表の顔として

認識されている外的な自己像も

どちらも本性の人間性から由来する
地続きの自分というものを
表しているのです


自分というものを考える時には
お城の外観ばかりを鑑賞して
本質を捉えないばかりでは

自分というものを見誤るでしょう
自分というものを敢えて定義せずに
人生の出来事や人との関係性から

浮かび上がっていくものを集めて
自分らしさを当場で判断していければ
それで十分なのです

もし、自分というものがない
と不安に感じ

虚無感に襲われているならば

 

それは、自分という本質に
気付き始めているのかもしれません

 

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自分というものがしっかりあって
素晴らしく活躍している有名人を
理想とする人も多くいる事でしょう

でも、自分という人間を生きていく以上
虚像だろうが、虚無だろうが
いまある状態での姿を

受け入れて進むしか道はないのです
自分という名を冠する
明確な確証が欲しければ

成長を果たして
自己像を地層のように
積み重ねればいいのです

その場その場の
自分らしさは変わっていっても


行動から積みあがってきた
自分の経験・価値観は消えたりはしません

そうした、過去の自分から
ヒントを得て自分を知ることも
一つの方法でしょう

いま、まさに自分というものに
迷っていたとすれば

空虚な中に、本質がある
という境地から

自分を生かす道を探すように
発想を切り替えてみてください

そうすると、シンプルな
自分自身の核が見えていくでしょう

自分を語る言葉に
そう多くのセリフは要らないのです

あり方を肯定できれば
どんな自分でも構わないのです

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