四十九日は大変だったし、疲れたが、私には大きな意味があった。


まずは兄と母とで、遺産の話が出来たこと。


私だけで帰省し、一泊したが、その際に母は私が母のこれからにしっかり関わっていってくれる確約をさせて安心したいという意図があったように思う。

その目的のために満を辞してこの日を迎えたという風に思えた。


夜はほぼ一睡もしなかった。

ずっと母の悲しみと、母による過去の気持ちなぞりに付き合って、そして、これから私にいかに関わっていってもらえるかを交渉されていたように思う。


私が結婚して、そして遠くに引っ越してから、父は私に母の面倒を期待出来なくなった。

それから父母はいくつものケンカと諦めを乗り越えて、父が亡くなる一年ほど前から(ちょうど私が真理子さんの講座を受け始めた頃から)父は完全に母に寄り添うようになった。

夏に帰省した時には、さらに変化した父に驚いたことをブログに記しているが、父が母の夫の立場にしっかり立った気がして感動したものだ。

父が亡くなった時、真理子さんづたいに父から

母の面倒を見させていたことは分かっていた、負担にしていた、と私へメッセージをもらったが、まさにその通りだった。

父は素晴らしい人だったが同時に自分に正直だった。

母がグラウンディング出来ておらずいつまでも子どもで、自立して対等に接することができない(離婚も出来ない)と分かると、仕事もあったのだろうが、器用にスーッと家庭からうまいこと抜けていったように思う。

とはいえ、全くいなくなってしまう訳でもなく、大事なところは押さえていたのだからそういう勘は冴えていたのだろう。


その陰で私はずっと本気で母のことを心配して、母のペースに付き合い、そして、私と母の関係が異常だと気づかなかった。

真理子さんと出会ってようやく家族それぞれがあるべき場所に落ち着いたのだと思う。

私は母の代弁者でもなく、母の慰め係ではなく、子どもとして、父と母を見ていくこと、それを自分に許す事ができるようになった。


母は相当粘っていた。

お父さんが死んで、自分には娘(私)しかいない。娘になら本心が言える。

頼れるのは娘しかいない。

もっと自分に寄り添ってくれ。

お父さんみたいになって守ってくれ。

ずっとずっと長い時間だった。

手を変え、言葉を変えて、私との今までの歴史、最近私の心が自分たちから離れ始めたこと、それに罪悪感を抱かせようとしたり、煽ったり、、


それでも私は今までにない自分を感じていた。情に流されない私がいた。


私は父の寝ていたベッドに横たわっていたが、母から背を向けて、縁側と部屋の境にある障子戸の棧を見ながら話していた。

私は小さい頃から母とは親子逆転で来た、私は甘えたい時に甘えられず、母の顔色ばかり見てきた。

今、子育てをしていて思う。どうしてお母さんはあんなことを私に出来たのか。私は子どもたちにお母さんからやられたようなことは絶対に出来ない。

今なら分かるが、その時私は疑問とも思わず当たり前と思ってやってきた。

ようやくこの頃になって、真理子さんのおかげで私の子ども時代はおかしかったんだと気づけた。

今の私は大人だから理解出来る、でも、私の中にいる小さな私は全く納得できてない。理解できてない。私はそのことで苦しんでいる。

人を信用することができないんだよ。

だから、今は私の中にいる小さな私を癒す作業をしている。

優先順位はまず私を癒すこと、そして子ども、夫。

お母さんを第一順位にはできない。

見守ることはするけど、お父さんの代わりではない、子どもとして、だ。


今でも思い出すと不思議だが、スラスラと言葉が出てきた。

人を信用できないのがつらい、なんて、自覚したことないのに。

自分じゃないみたいだった。

障子の桟を見ながら、淡々と話した。


それでも母は言葉が通じないみたいに、私の言葉を聞いてないみたいに、自分に寄り添ってほしい、と主張を繰り返していた。

未熟な母親だったんよ、と私に謝っていたのは覚えている。

私はこれを聞きたかったのかもしれない、と一瞬思った。


私は引く気は全くなかった。

同じことをまた最初から説明した。

2回目また言えた時、障子を見ながら、自分はとても革命的なことを口にしているんじゃないかなと思った。

誇らしい気もした、が、同時にやり過ぎたのかなという気持ちにもなった。


そして朝になった。

ほとんど一睡もしてなかった。

お昼すぎの電車で、私の住む街に帰ってきた。