弁護士・検事系や医療系も大好きなんですが、教師系のドラマも大好きで、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら見ています。
ごくせんやGTOみたいに勉強以外のことも、体を張って全力で生徒をサポートできる熱血教師ではないですが、私はいったい、どのような先生になりたいのか。
英語が楽しく、英語が好きになってくれたらそれで良いのか。結果はいらないのか。
「教える」という言葉には、大きく2つの意味があると、日本語講師になる時の学校で習いました。「意図的教育観」と「成功的教育観」です。
意図的教育観とは、教える側を中心にした考え方で、「働きかける」ことを重視する考え方です。
例えば、be動詞と一般動詞が分からない、混同をしている学生に2種類の動詞を教えるとします。
動詞について説明をして、問題を解くように指示をしたりします。意図的教育観を持つ教師は「教えた」ことに満足します。「目標に向かって頑張って教えたこと」「自分は努力したこと」が大事であって、学習者に働きかけさえすれば、学習者が理解してようか、してまいか関係ありません。もちろん、結果も関係ありません。
一方で、成功的教育観を持つ教師とは、「教えたい」という思いや熱意、一生懸命説明したとしても、学習者の能力等に変化や成長がなく、結果がでなければ、それは不十分であると考えられます。「これだけ教えたらよし」というのはありません。学習者によって、工夫すること、変化することが求められます。その行動の成功をもって教育と考えます。
結果なんて関係ない、私の英語教室を通して、学習者が英語は楽しいんだと思え、英語が好きになれば良いんだと思っていました。もちろん、それが根底にはあるのですが、やはり、教えたことはできるようになってほしいと思います。身についていなければ、私は「教えた」ことにはならないのではないかと。
学校で教えている時は、生徒は一人ひとり、やる気も能力も全然違いました。その時も、成功的教育観を持ちながら、どうしたら理解してもらえるのか、工夫をしながら、指導をしてきましたが、理想と現実は違い、いつも葛藤をしながら、教室に入る足取りもとても重たかった。少しずつ、諦める気持ちが強くなってきていた気がします。
集団に指導する学校や塾などは、意図的教育観になってしまうのは致し方ないことなのかもしれませんが、私のような、個人教室ではそうではないようになりたい。
時間の制限やその学習者の状態等によって、十分な指導ができない時もあります。同じ間違いを何度も繰り返しする学習者もいるし、この前教えたことをその時は理解してくれても、また分からなくなる学習者もいます。
でも、私は、できる限り、それをそのままにせず、理解してもらえるまで、とことん付き合って、何度も何度も繰り返し教えたいです。そうでないと、私が気持ち悪くて。生徒目線なのか、自己満足なのか分かりませんが…
分かってもらえないのは、私の教え方が分かりにくかったのかもしれない、どうしたら分かってもらえるのかまたうーんうーんと考えます。
結果が出ると、教師も学習者も嬉しいです。良い結果が出て嬉しくない人なんていません。自信がつけば、笑顔も増えて、前向きになるし、英語以外の教科への勉強への学習意欲も湧きます。
次回は、結果が出て、成長をした中学3年生の女の子のお話をしたいと思います。