みなさん、性の問題は日常生活において大きいのではないでしょうか?
私の父は快楽は悪だと思って生きています。
そんな家庭に育ったので、家の雰囲気は「快楽はあかん」という雰囲気になっていて、常に見張られている感じがして、安心できません。油断してはならないと緊張させられます。
父はよく神経質だと言われます。
父に最初に会った人は「細かい」という印象を受けます。要するに細かい要求をしてきそうという感じがするのです。その要求の中に、「元気はあかん」とか「快楽はあかん」とか「大きい声出したらあかん」とか「人間は弱い方がいいから弱くなれ」という要求が含まれているのです。
父は快楽が善と思っている人は悪人だと思っていて、世の中には快楽が善だと思っている人がほとんどなので、「人を見たら悪人と思え」と思っていると私は思います。
こんな家庭になった大きな原因は何か?
それは性に対する考え方です。
性についての錯綜が問題の本質です。
大前提として、性について、イエス・キリストの言葉にあるように、「然りは然り、否は否としなさい」で考えいくことにします。
まず、快楽が悪と言われる理由は何か?
それはmbです。
ではその反対の立場の禁欲はどうか?
禁欲=自然の欲否定なので、これも悪です。
では性については何が正解か?
mbは悪、その反対の禁欲も悪となったときに対立する意見を戦わせて答えを出す方法を弁証法と言います。要するにディベートです。答えは折衷案でもいいし、素晴らしいジンテーゼでもいい。中間の答えが出せればいいのです。
まとめると、テーゼがmb、アンチテーゼが禁欲、ジンテーゼは何か?ということです。
そして、当然ジンテーゼを考えるのですが、これがなんといくら探しても見つかりません。
ここで、発想の転換をします。これだけ探してもないなら、もしかして、はじめから、ジンテーゼは存在しないのではと。
そして、次に仮説思考に切り替えます。つまり、「性のことに関してジンテーゼは存在しない」と。
そして、このことを前提にすると、次の定言命法が導かれます。「mbをやめる方法(命題)はない、だから気をつけなさい」と。
結局、命題がないことは証明できないが、仮説思考で命題がないことを想定して生きてみるのです。そうすると、気をつけるしかないので、mbにも禁欲にも走らず生きていけるのです。
その結果、ジンテーゼらしきもの(折衷案)は「性のことに関して命題はない、だから気をつけなさい」になるのです。
きれいな答えではありませんが、もしきれいな答えがほしいという人は、ぜひ自分の頭でジンテーゼを考えてみてください。

