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我が家の先祖(続き)

堅気じゃない曽祖父と踊り子だった曽祖母、そしてその二人の養子になったのが、曽祖母の実の妹である私の祖母とその夫である私の祖父。

そこへ次女として生まれたのが私の母です。


母が「お嬢」と若い衆に呼ばれていたという小さい頃の話は母からたくさん聞きました…が、その前に、祖父についても書き残したいのでまずは祖父について書こうと思います。


前回書いた通り、祖母の家は旅回りの一座。

そこへ集まるのは、帰る家を持たない人や、何か事情があって故郷へ帰れない、そういう人たちばかりだったそうです。

祖父もそんな一人でした。


明治生まれの祖父は、東北の田舎の山奥で炭焼きをしていた祖父母に育てられましたが、家がとても貧しく、小学校もろくに通えなかったそう。

実の親は物心ついた時にはどちらも生死不明で行方知れずでした。

(祖父母の家に子供を置いて出て行ったらしい)


炭焼きをしていた祖父母が亡くなった後、存在も知らなかった親戚に山から追い出され、寿司屋で住み込みで働いた祖父。

そこへ、旅回りの一座が料理人を探していると口利きされ、一座に加わったそうです。


文盲だった祖父の自殺

私が幼い頃、煙管をくわえて新聞を広げている祖父の姿をいつも見ていましたが、後から知ったのですが、祖父は字の読み書きがほとんどできませんでした。


そのことを知ったのは、私が小学生の時に祖父が農薬を飲んで自殺を図り、その時祖父が書いた遺書を見たからです。


まるで字を練習し始めたばかりの子供のようなクネクネしたひらがな、そして漢字ではなくカタカナで書かれた祖母の名前。

「◯◯◯(祖母の名前)すまない さきにいく」


後からそれを見た母と叔母が泣いて泣いて…

「小学校一年の途中でやめさせられたから字もろくに書けなかったんだよ。大人になってから新聞を見て勉強して…これもきっと一生懸命に書いたんだろうね。」

と話してくれたことで、初めて祖父が文盲だったのだと知りました。

新聞を広げた姿をずっと見てたから全然気づかなかった赤ちゃん泣き


心臓の持病で何度も倒れていたので、もうこれ以上家族に迷惑はかけたくないと以前から祖母に話していたそうです。

祖父の苦しそうなうめき声に祖母が気づき、救急車を呼んで病院へ運びましたが、意識はそれからしばらくあったものの結局助かりませんでした。


後悔

私は、、祖父が農薬を飲んだ瞬間を、その時はわからなかったけど見ていました赤ちゃん泣き

私の両親が商売をやっていて帰りが深夜だったので、私と私の妹2人は祖父母に挟まれて6畳間に寝ていました。

私は祖父の隣。


祖父は寝る前に胃薬を飲むのが習慣だったので、その日も祖父が夜起きて何かを飲む姿を半分眠りながら見たものの、いつもの薬だとばかり思ったんです赤ちゃん泣き


あの日、祖父がどんな思いで農薬を飲んだのか…何十年経った今でも、何かを飲む祖父の後ろ姿がありありと目に浮かびます赤ちゃん泣き


じいちゃん

ごめんね赤ちゃん泣き

いつの日からだろう…邪険にするようになって。

どうしてもっと優しくしなかったんだろう


家にあるテレビのチャンネル権が祖父だったので、祖父が帰ってくると好きなテレビ番組を見れないことが嫌だった私は、祖父が帰ってくるとすぐに二階に上がってしまっていたのです。

幼い頃は「じいちゃんお帰りー!!」と笑顔で出迎えていたのに赤ちゃん泣き


祖父が亡くなってしばらくの間、夜もろくに眠れないほど後悔し、ある日「もういいんだよ」と優しく笑う祖父の夢を見て、やっと眠れるようになりました。

祖父は享年77歳、私が小学校6年の時のことでした。



また長くなったので続きは次へ