(これは、昨年書いたストーリーに加筆、追記したものです)

アメリカ、ワシントン州北に位置するウィッビー(Whidbey)島の人口1831人の小さな町クープヴィル(Coupeville)、ここで自動車修理工場を営むマーティ(Marty Robinett)から実母を捜していると、8年前相談を受けるまで彼が日本人の血を受け継いでいるとは思いもよりませんでした。
彼は、生後2ヶ月足らずに、横浜にある孤児院(聖母愛児園)に預けられ、7歳の時にロビネット夫妻の養子としてこのクープヴィルへ移住しました。
養父ロビネット氏は、晩年渡した養子縁組の書類や、渡米の際作成した往路のみのパスポート、それを作る為に必要な、両親の欄が空白で、日本名「酒井秀彦」が筆頭主の手書きの戸籍謄本…。
これらの書類を、当時、私がクープヴィルに住む唯一の日本人であるというからでしょうか、彼の実母捜しが始まりました。
〈1954年 養子縁組が成立後、渡米する際に発行されたパスポート》

まず、育った孤児院を見つけ出し、2013年夏、パスポートなどの書類を手に訪ねました。横浜聖母愛児園の園長さんは、個人情報保護法のある中、快くマーティの情報を見せて下さいました。実母の名は『酒井米子』さん、18歳の時に彼を産み、帳簿の父親の欄は空白。当時、戦後の混乱の中、駐留米国兵との間に生まれた孤児たちが多くこの修道院に預けられたそうです。院の前に置き去りにされたり、産み落としたばかりの孤児もそして亡くなっていた赤ちゃんも数多くいたそうです。そういった中でマーティの場合、自身や母親の名前も帳簿にあり、どうしても育てられずやむなく預けられたのではないかと想像します。

その後、帳簿に記された米子さんの本籍地、平塚市を訪ねましたが、ここでも個人情報保護法の壁。マーティが戸籍筆頭主ということは、おそらく米子さんは出生届を提出していないのでしょう。いくら委任状があっても親子であるという証拠がないのです。ですが、古いパスポートや戸籍謄本の原本を見て、特別にご好意で『酒井米子』が存在したかどうかを調べてくださいましたが、現在、平塚市には存在しないとの回答でした。

また、孤児院の帳簿に書かれていた平塚市の住所も現存せず、市役所の区画整理課の方々も過去に遡って、多分この辺りなのではと教えてくださいました。平塚市は戦時中、戦火や爆撃に遭いほぼ壊滅(平塚空襲)、戦後、区画整備されて当時からの古い商店や学校、当時から住んでいらっしゃる方もほとんどいないのです。

以来、まったく手掛かりも情報もないまま5年が過ぎました。

昨年5月、Instagramに投稿しました米子さんと、彼女の姉の写真と一緒にある手紙が見つかり、米子さんの嫁ぎ先の姓も「サカイ」であること、マーティの異父妹弟になる一男一女がいて、1980年代には沼津市に住んでいたこと、異父弟の「ミノル」さんには83年頃、「マサオミ」さんという名の息子さんが誕生していること…がわかりました。
〈左が酒井米子さん 右はその実姉のサトコ(漢字不明)さん〉


6月末、一時帰国の際、沼津市立図書館で個人電話帳を調べて、弟さんに当たる同姓同名の方が一人該当し、お手紙を書きましたが今現在お返事はありません。*


米子さんは、ご健在でしたら、今年1月8日で89歳。
マーティに米子さんと妹さん、弟さん、甥っ子さん…日本の家族に会ってもらいたい…。そして、米子さんにも孫達、ひ孫達に会ってほしい…。


毎年、終戦の日が近付くと、SNSなどに投稿しておりますが、無名の一個人の投稿には限界があり、月日だけがただ虚しく過ぎていきます。


どうかどうかお力を貸していただけないでしょうか?何かいいアイディアをお教えいただけないでしょうか?


*昨年クリスマスカードを異父弟さんに送りました。返信がクリスマスイブに届きました。それには、母米子さんがお亡くなりになったことが書かれておりましたが、弟さんである、ということがわかりました。ご丁寧に返信くださったことに心より感謝申し上げます。誠実なお人柄を知ることが出来、嬉しく思います。この場をかりまして重ねてお礼申し上げます。


【追記】
このたび、テレビにて取り上げていただくこととなりました。(2019年1月25日フジテレビ放送予定)




(2013年に書いたストーリーを加筆、訂正したものです)


まさか、こんな形でここを訪れるとは…。


2013年8月最終日。
横浜石川町駅ホームに降り立った。ムワッとする空気と共に30年前の秋の記憶が蘇って胸がギュッとなる。


高校2年の二学期から都立高校に編入したワタシは、イギリスからの『転校生』ということでイジメにあっていた。(『手作り弁当の威力』)


毎朝、家は出ても、高校のある駅が近付くと気分とともに脚が重くなって床にぴったりと引っ付いたように動けなくなり、結局、降りれずにそのまま山手線を数周した後、渋谷駅でようやく降りて横浜元町まで行き、港の見える丘公園で母の作ってくれたお弁当を食べ、そのあとは山手地区を歩き周りながら、ヨーロッパ様式の建物を眺め、横浜港を眺め、客船を眺め、そして水平線のはるか彼方の向こうのイギリスを想い、頭にはオフコースの『秋の気配』の曲が流れる(なんたって港の見える丘公園は曲の舞台)…、という、まぁ、なんともセンチメンタルな16歳の秋を過ごしていたのだ。

(横浜市 環境局ホームページ『港の見える丘公園』より)

それ以来の横浜山手地区なのだ。(横浜中華街には訪れたことはあるけれどいずれも車で立ち寄っただけである)


長期の病気休業中の一時帰国。ワタシは、“やらなければならないこと”にようやく向かい合うことになった。


頼まれてからさらに1年近く経ってしまった。

そう、マーティの実母捜し。


ワタシには荷が重い。


がん診断から5年が経過しているが、異なる全身疼痛が増して来ていて体力が追いつかず、集中力も散漫になり、その年の暮れからやむなく長期休業をとることになった。しかし、ワタシの身体面から荷が重い、というのは単なる言い訳でしかない。


あのパスポートと戸籍謄本を手にしてから、気が怯んでしまい、目を背けているジブンが何処かにいるのだ。
今思うと、目を背けていてマーティに申し訳ないと思っていることが、もしかしたら痛みが増している原因かもしれないけれど
…。


さて、マーティは1969年にベトナム戦争からの帰還途中『トウキョウの孤児院』に寄ったと言っていたが、彼のパスポートは横浜市が発給していたし、戸籍謄本も横浜市の発行なので、彼の言う“トウキョウ”は横浜市だろう。それに、戸籍筆頭主、つまりマーティの当時の住所は山手区だ。彼の孤児院があったのはおそらく横浜市山手地区だろうと予測した。

『横浜 孤児院』で検索すると当時、どういうわけか先ず『サンダーズホーム』が出てくるのだが、横浜市でもなければ大磯町だ。やはり有名だからだろう。あらためて今度は『横浜市山手地区の孤児院』で探すと『横浜聖母愛児園』の一件。これは、少し光が見えて来た気がした。(元々、愛児園は聖母会の修道院であった)


聖母愛児園のホームページには連絡先の電話番号とメールアドレスがあった。所在地は、戸籍謄本に記載されていた住所と同一だ。ここで間違いない。

でも、いきなり電話したら失礼だろうし、説明も難しい。ましてや、何処の得体も知れない人からこんな話があったら引いてしまう。まずはメールを送ってみることにした。


数日後、愛児園の事務局の方より快い返信があり、さっそく訪問の日時を取り決めることが出来た。


そして、その日が来た。



駅から外人墓地を通り過ぎたころには、さっきふと感じた30年前の記憶と胸の奥がギュッと締め付けられた痛みも右半身の疼痛も、額を流れる汗とともに薄れ、かわりに緊張で心臓の鼓動がものすごい響きで音を立てる。


坂…!

マーティが憶えていた坂!



その目の前の坂を歩くていくと、新築された建物が見えてきた。ホームページにあった聖母愛児園の建物だ。

約束の時間にはまだかなりあったので、園の辺りを見回す。
高い木の日陰に入って一息つく。挨拶の文句やら質問を頭の中で繰り返す。



5分前。
ゆっくりと園の前に向かう。

ふうーっ。

再度、大きく息を吐く。

まるで、就職試験の面接みたいだなぁ…と、笑いが込み上げて来た。

つづく…