先日、さけちゃんが小さい外科手術を受けて暫し少〜し不自由な生活を過ごすことになった。ほんとうに大したことではなかったけれど、彼としては自由に動けないことがかなりストレスだったようで、ようやくワタシのキモチが解ってくれたのかと思いきや、弁護士に遺書を依頼した。ワタシの分もあるのだが、まだ、さらりと目を通しただけでサインもしていない。

でも、いつ何時、またジブンに何があるかもしれないし、30年以上、地に足着かない"漂流もの”故、銀行口座の情報(大学の同級生が金融機関に勤めたので、当時11行あったほぼ全ての都市銀行の普通預金口座を作っていて、いくつかの合併統合があって数行に収まったものの、個人としては保有銀行口座数が多すぎる)とか実印の場所とか遺書とまではいかないけれど、ざっくりとした覚書きみたいなものは、実はかなり以前から用意している。

持ち家を売却し、借金もないので少しは負担がなくなったとは言っても、今、ワタシに何かあると、日本語の読み書きが全く出来ないさけちゃんが困るだろうし、弟が手助けしてくれるだろうとかなり期待はしているが、全てを任せるのはかなりの重荷だろう。ゴメンね。


そんなタイムリー(?)なこのときに手にしたのはこちら


精神科医が教える50歳からのお金がなくても平気な老後術 (だいわ文庫)


日本人であるが故の、美しく散り逝くには日々のジブンの生き方や身の回りのちいさな気づきがあった。

江戸っ子には、「生きるのも粋なら、死ぬのも粋にいきたい」という考えがあって(207頁)
現在のように医療が発達していない時代ですから、大病を患えばそれで命が尽きるのは自然なことでした。死からのがれることができないのならば、できるだけ散り際を美しく逝こうと考え、「老人」とは正反対の「死光(しにひかり)」という言葉も生まれました。「死光」とは、死に際の立派なことや死後に残る栄光のことで、「死に花」とも言われました。

「おかげ様で」 という日本語は、「直接かかわりを持たなくても、人間はどこかでつながつているものという共通認識がある」のは日本独特の美しさだと再認識した。



また、各章毎にいろいろな賢人の格言が副題として記されているのだが、これらの選択がまあなんとも良いのだ。

なかでもスタインベックの
「あんまり一人ぼっちの人間は、しまいには病気になるもんだ」
なってた、なってた。

チェーホフの
「男と交際しない女は少しずつ色褪せる。女と交際しない男はしだいに阿呆になる」
やはり、ときめきは幾つになっても要るなぁ。

内村鑑三の
「一日は貴い一生である。これを空費してはならない。」
ほんと、ほんと。あゝ、耳が痛い。

そして極めはダヴィンチ
「充実した一日がしあわせな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす」

そうありたい。




「人の生を享くるは難く、やがて死するべきもの 
今、いのちあるは有り難し」(法句経)
「私たちは、数えきれない偶然と無数の先祖の計らいによって生まれたのだから、命の尊さに感謝して精一杯生きなければいけない」(192頁)


いきるとは 
あゝ  有り難し

美しく逝くために粋る…
粋たいなぁ