がんというと、必ず五年生存率とかステージとかという基準みたいなものが出でくる。

でも、そもそもその基準ってどうやって決めるのだろう?

たとえば、がんと思しき細胞に、なんらかの薬剤を落とすと機器がデジタル数値をはじき出してハッキリ白黒と分別できるものなのだろうか?

普通の血液検査でさえ、標準値はザックリあっても、その値をかなり超えようが、或いは下回ろうが、ピンピンしている人もいれば、標準値であっても病んでいる人もいる。
リトマス紙みたいに、赤でもなく青でもなくピンクかかった赤とか紫がかった青とか紫に近いその中間の色合いは、見る人によってその色幅や色見は違ってくるから誤差は出でくる。そんな極めて客観的なものに対して、そのいわゆるがんやステージとかは、診断士の主観によって判断が下されるのだ。


あやしきもは罰せよ

その方が、ラクだから。


人間は、とかく数値化とかカテゴリー化したがる生きものだ。そして、その値やら帰属化に一喜一憂して振り回され生きている。

かくいうワタシも、細胞診あとの再精密検査で子宮がんのステージ3とやらの診断に愕然とした。文字通り、『ガーン』となった。途方にくれる…とはこのことを言うのだろう、と思う。

早急に、全摘出手術を、という医師のことばも虚ろに聞いていて、とにかく、時間をくれないか、と診察室をあとにした。

当時は、今ほどインターネットなどの豊富な情報はなかったけれど、ステージ3からの完治はおろか、全摘出手術をしての五年生存率も極めて低い。全摘出手術後の経過はあまり芳しくない体験記やブログが目立った。
だいたい、そのステージとかっていったい誰が決めたのよ?
必要でない臓器なんてあるの?
全部摘出してもいいの?
そもそも、ワタシ、ホントにがんなのぉ〜?



翌週、あの診察室に入った。
全摘出審判を下した年配女医は、なぜか晴れやかな顔で出迎えた。 

「で、決心はついた?」

と、カルテに目を落としながら答えを知っているかのように聞いた。

「はい。手術はしないことに決めました。」

ペンを持つ手が止まり、くるっとこちらを向き、老眼鏡の上越しから鋭くワタシを睨みつけた。

「あなた、何考えているの?」

「1週間よく考えて出した結論です。化学療法もしたくありません。」

瞬きひとつせず、さらに鋭く睨み

「正気で言ってるの?」

「はい。」

フンと鼻をならし頭を左右に振りながらカルテに向かうも、そのペンを持つ手は止まったままだ。

決心が揺るぐ前に一刻も早くここを出たい。

「ありがとうございました。」

立ち上がり、ドアに手を掛けたとき、

「あなた、あと一年で死んでもいいわけ?」

背中に冷たい刃物が刺さった。
振り返らずそのまま診察室を出た。


一年?あー、そーですか、そーですか?
ワタシがあと何年生きるかなんてアナタに決めてほしくない。神さまだってそんなこと知ってても教えてくれないのに?


もし、一年だったとしても、手術して今よりもっと痛みに苦しんだり、入院やら通院の時間を費やすよりは、その分、普通に生活したい。

生きる、生きてやる!

あの背中に刺さった冷たい言葉がさらにワタシの決心を堅いものにした。

そして、2013年秋、あれから丸5年。
誇らしくもホッとしているジブンがいる。
やっぱりワタシも人間が決めたそのあらゆる種類の枠組に振り回されている。が、がん検診はあれ以降一切受けていない。


生きるのはジブン
治療を選択するのもジブン

だから、勝手に決めないで。




これは、3年前に記したものを再投稿しました
ジブンへの戒めも込めて


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フェイスブックの"PowerofPositivity"より