どうやら流行りのインフルエンザに罹ってしまったようだ。丸一週間、外にでることも出来ず横になっていた。こんなことは久しぶりだ。そう思うと、動けていた身体が当たり前になりつつあったんだろう、と改めて自覚して感謝した。また、身体が休めって言っているのだから。
慢性疼痛におい被さったような筋肉痛で、けっして華奢でもなんでもない脚がおれるんじゃないか、と思うほどガクガクし、寒気でゾクゾクした。ようやく5日目になって本が読みたくなるほど上体を起こせるようになった。が、雑誌でもなく、あんまり深く考えなくてもいい、ただ活字を追うにはエッセイ集にかぎる。


そして、ワガ家の積読本から目に留まったのがこちら。


南アフリカらしい時間

2010年4月の初版だが、本に挟んであったレシートを見ると、2014年8月とある。一昨年のその頃、急遽マンションを売ることになったので本を読む時間がなく、そのまま引越し荷物で本棚の端の積読本たちの塊の中に移動していた。はて、そもそもどうしてこの本を手にしたのか思いあたらない。 まぁ、読むうちに思い出すだろう。



故マンデラ氏の鍼灸師として南アフリカへ。およそ10年ほど暮らした現地での生活。想像もつかない厳しさと当時の社会情勢を考えても、けっして並大抵のことではないはずだ。

遠く離れたかの地て初産、しかも、シングルマザーとして生きるなんて、よほど、たくましいひとなのだろう、と思う。いや、なのに、彼女の文章からは、たくましさよりもむしろ華奢なか細さを想像してしまう。そんな彼女だからだろうか、まわりにはいつも誰ががいる。おだやかででもたくましく現地に住んでいるさまざまなひとたちとのつながりがこんなにもあたたかく、そして、分け隔てなく、けっして「労」でも「荷」でもなく、ごくごく当たり前に自然に差し出すヘルプ。いや、差し出す、とか手を差し伸べるなんて、そんな感じでなく…。すべてのひとがまるで兄弟姉妹のように、だれかがいつもそばにいている心強さ。

ひとはひとりでは生きれない。
そして、真っ直ぐに生きている。



さて、ありがたいことに老眼鏡かなくても読める活字の大きさも手伝って、いや、筆者の文章のやわらかな流れは、風景が鮮やかに頭の中で描写でき、没頭してしまう。
そして、主人公の筆者が、鍼灸師という仕事からか、ワタシのある尊敬する知り合いの鍼灸師といつの間にかダブってしまっていた。


昼間、そのまままどろんでしまったが、ほぼ1日で読み終えてしまう。最後のページをめくると、寂しさを憶える。この植田智加子というひとと、そのおだやかにながれた彼女が暮らした時間とそこに拡がる風景とワタシが繋がっていたのが、プチっと切れてしまい、鮮やかに描かれていた風景がセピア色に変わってしまう。

そしてどうしてこの本を手にしたのかが思い出せずにいる。でも、なんか縁があったはず。


だから、つづきがあって欲しい、そんな一冊である。