創立何周年、がめでたいか、どうなのか。
これは実はいつもよくわからない。
 

その先人たちの成されてきたことに敬意、時に感謝。

これは間違いないが、じゃあ、めでたいことかというと、
そういうものでもない、といつも思っている。

 

「じゃあ、めでたくないのか」

「祝う気持ちってものはないのか」
 

と言われると、ホントそういうのとは観点が違うくて。

見るポイントがそこじゃない、というだけで、その空気に敢えて逆らうこともない。
 
 

ただ、危うさをはらんでいるという意味で、いつも気になっている。
 
「創立何周年おめでとう」
 
は、
続いたことが着眼点になっていて、それが「おめでとう」であることで「目的」にすりかわってしまいやすい。
 

本来、”続くこと”自体が目的にはなってはならず、
必要とされて、貢献して、その結果として続いたことが素晴らしいことなのであって。

その過程で生み出されてきたものが尊いものであるから。

愛でるのは、そっちである。
 

 
そういう風に思うのは、
存続することが目的化してしまっている組織や会も結構あると感じるから。


「何周年おめでとうございます」

「更なる発展を」
 
という常套句にはそういう意味で危うさを覚える。

それが目的なって刷り込まれていくと本当におかしいことになってしまう。

存続や発展は手段であり結果であるから、目的にはならない。
(どこかの国や伝統的専制国家の臭いと変わらない)
 

 
そして
その「おめでとう」は厳密には誰に対してなのだ、
というのはいつも曖昧だ。

そこが曖昧だから、違和感に気づきにくい。

だから、なんとなーくそのままモヤっと続いちゃう。
  

 
儀式や言葉は、集団の団結心を高め、行為に意味づけを施す。

それが同様のプロセスで洗脳の温床にもなりうるのは、歴史が証明してきたことであり。
  
 

その意味で言うと、
「就任おめでとうございます」
も基本的には同じ。
 
そこを言葉にしてお題目にしてしまうことで、手段の目的化の後押しなので。
 
 
 
そこに至る努力と貢献、諸先輩方に敬意と、

今後の期待と応援の想いと、

それは間違いなく、それを伝えたい場はある。
 
 

だからこそ、それを表すお題目としては、
それは言葉の方向性がおかしいし、危うい、本当の意味で応援できてない、
といつも思うわけで。
 
 

とか、式典に出ながら思っていた。

でも、おめでとう、ありがとう、尊敬、感謝の気持ちは人一倍あります。

だからこそ思うわけで。