その昔、宇宙は神の世界であり、地上とは違い完全なる世界と考えられていた。

 

地上で生き物が生まれる、死ぬ、気候が変化する、作物が実る、川が氾濫する、干ばつが来る、大雪が降る。

 

地球上で起こる、生活を揺るがすほとんどのことには不完全ながらサイクルがあった。

 

一方、天はそれを指揮するかのように、変わることなく、完全なサイクルで回っていた。

そこに神を重ねるのも自然なことだったろうと思う。

 

天を意味ありげに駆け巡る惑星たちには神々の名前が与えられ、

時折現れる変調、日食、月食、彗星、流星群の出現などは、その神々による常ならぬ意思表示と考えられた。

 

人々、特にその時代の権力者は恐れおののき、

その意思を読み解こうとし、

時にはそれを利用しようとするものもいた。

 

その「神の意思」の判読が天文学者たちの仕事であった。

その判読は宗教観念と強く結びつき、分かちがたいものとなっていく。

 

一方、市井では同様の思想で1人1人の人生と結びつき、不安定な世相に振り回される人々にとって、頼るべきものとして人気を博した。

宗教と相対するものでは無く、宗教よりも目に見え、具体性のありそうなものとして歓迎されたことだろう。

(こうした過程が星占いの始まりと思える。)

 

 

かつて天文学者は、いわゆる科学の人では無かった。

 

天とは、地上を統べる完全なるものであり、

不完全なる地上の法則を適用する対象としては考えられなかったからだ。

 

 

そこに科学の目で分け入ったのは、いわゆる旧来の天文学者ではなく、数学、物理を得意とするものたちだった。

ケプラー、ニュートン、ガリレオガリレイ、その人たちである。

 

 

彼らは、観測された天の挙動、つまり神の御心を

地上で発明された数学の言葉で説明したのである。

地上で通用している物理の言葉で説明したのである。

  

神の意思は、予測可能なものとなり、

世の中は、この公明正大で矛盾の無い理論を受け入れ、世界は前に躍進していく。

 

ー  はずだった

 

(つづくかもしれない)