書くことって、トレーニングだと思ってやっていますわ。

そして、改めて意識的にやるようにしようと思いますわ。

 

世の中の現象や、考えたことは、切り取って、固めて、形にしてようやく理解して取り込めたり、人に表現することができたり、具体化してアクションに繋げたりするわけで。

 

その作業がまず言語化することだと思っています。

自覚して、整理して、形にする、というプロセスを踏んでいくと必然的に、言語化、ということで。

 

黙々と日記だと続かないんだなこれが。

かと言って誰かに自慢げに披露するわけでもないけども、世の中に放出しないと何かモチベーション続かないのよな。

これ何なんだろ。

 

ということで、誰に見せるでもなく、かと言って机の上の日記帳に黙々とつけるでもなく、考えていることをまとめて放出する作業を意識的にしていこうと思います。

ブログとかFBとか。トレーニングトレーニング。

 

あ、ドラえもん好きなんですよ。

子供に誕生日にいただいた、お気に入りのマグカップ。

 

それで、世の中って、基本的にグラデーションで。

どこからどこまでが白で、ここからは黒。

そういった境界線を引いて分けていくことの連続だと思っていて。

(どんな形で何本引くかは色々あると思うけど。)

 

それが何かを決めることだったり、言語化することだったりすると思うんだけど。

曖昧で捉えどころのない世の中を、触れる、取り扱える、見える形にする。ってことで。

しかしながらそれは、誰かが引いた境界線であって切り取った部分であり、仕上げた形なので、それは必ずしも自分にとってそうなのかどうかって、そこを絶対視するもんじゃないよね。

 

「定義」と言い換えれる場合もあると思うんだけど、それは彼の定義、私の定義はこう、ということもたくさんあると思う。

にしのあきひろさんの本で「芸人の定義」という話があった。

「芸人なのにひな壇でないなんて」とか言われたときに「あ、そうか芸人の定義が自分と彼では違うんだ」ということがあったが、そういう考えって大事だと思う。

 

「◯◯はこうだろ!」

「いや、おかしい、こうだ!」

  

というときには、そもそも定義が違ってることが多数。

 

あと、

違う目的を目指してて、その方法論がどうだ、とかで食い違ってる場合もあるね。

単純に言うと、違う山を目指してるのに、装備はこうだ、いやああだ!って。

 

近所の山を登る人と、エベレスト登る人がいて、

「山登るんなら装備はこうだろ!」

「いや、ちゃうやろ!バカか!」

という状態、結構ある。

 

まず、あなたの考えるこの言葉の意味って。

目指してるとこって。

 

合わせることが目的というよりも、違いを違いとしてきちんと認識しないと始まんないよね。