これでいいのだ | 久遠屋EGGMAN

これでいいのだ

赤塚不二夫の葬儀でタモリが読み上げた弔辞。


いくつものブログでも書かれてますけど


あれ白紙でしたね。


内容もさることながら全てが印象に残る素晴らしいもの、


一言で言うなら、最高の芸でした。



弔辞の中で印象的な言葉がいくつかあります。


以下引用



「そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。」



「死」というものをギャグにしてしまったのならば


タモリの弔辞もひとつのギャグなのでしょう。

お互いの最高の芸のぶつかり合いという気がしてなりません。


この二人にしかわかり得ない、またなし得ない、


人生という舞台で最高のオチをつけた究極の芸。


これこそが「笑い」という芸の真髄であると思います。



文章を読み上げれば普通になる。


かと言って、遺影に向かってあふれる言葉を紡げば感傷的になる。


そのどちらも二人にとっては意味のないこと。



死んでやった、さあ返してみろ!というフリがあり


読んでいるフリしながら白紙だぞ!どうだ!


という返しがある。


ありきたりのことを嫌うこの二人。


世間を斜に構え、反骨心で既成概念を壊そうという二人。


その集大成がこの弔辞の「芸」ではないだろうか?



松田優作の斜顔の遺影もかっこよかったけど


タモリの弔辞も最高にかっこいい。



人によっては不謹慎だと思う人もいるかもしれないが


僕は「死」というものをギャグにしてしまったこの二人の掛け合いを


究極の芸としてしか見ることが出来ない。


こんなに素晴らしい芸を見ることができてよかった。



ただのギャグとするならそんなに面白くはない。


この裏に隠された慈愛と尊敬と感謝と、お互いの生き様


二人で最高の芸を見せ付けてやろうぜ!という気迫。


それが感じられたからこそ、この弔辞は究極の芸であると思えるのである。


いや、究極の愛なのかもしれない。



「私もあなたの数多くの作品の1つです。」



だからこそのこの弔辞なんでしょう。


最高の作品としての集大成。



それらのすべてを掌握し肯定し受け止めさらりと流した一つの言葉こそが


これまでの、そしてこの日のすべてを表しています。



「これでいいのだ。」