生と死の狭間で
ゴミ出しをしに、自宅マンションの部屋を出た。
自分の部屋に戻ってくると、
廊下の自分の部屋の玄関ドアの前の廊下に、不気味な黒い雫が垂れている。
何だろう、と思って天井をみると、
天井の蛍光灯に、虫が接触して死んでいた。
そこだけ蛍光灯の電気が消えていたので、どうやら感電してしまったらしい。
そういえば、今朝、県境の川のサイクリングコースを自転車で走行中、
地面に干乾びたミミズの死体が無数に転がっていた。
暑さにやられたのだろう。
川岸には、朝の散歩をしている人々が十数人いたけれど、
その人たちは、その死体を何事もないかのように踏みしめ歩いていた。
目を凝らさなければ分からないほど小さな死体とはいえ、
虫の死骸程度では人間の心は動かないということなのだろうか。
他者の屍を踏みしめ生きていく人々。
人間が生きるために、いったいどれほど多くの生物を犠牲にしているのだろう。
例えば、食事ひとつとってみても、
人間が日々の食事をするために、いったいどれほど多くの
牛や豚、鶏、魚が殺されてきたのだろう。
別に私は懐古主義者でも菜食主義者でも環境テロリストでもありませんが。
生きるためには犠牲がつきものなのだと改めて実感した。
自分の部屋に戻ってくると、
廊下の自分の部屋の玄関ドアの前の廊下に、不気味な黒い雫が垂れている。
何だろう、と思って天井をみると、
天井の蛍光灯に、虫が接触して死んでいた。
そこだけ蛍光灯の電気が消えていたので、どうやら感電してしまったらしい。
そういえば、今朝、県境の川のサイクリングコースを自転車で走行中、
地面に干乾びたミミズの死体が無数に転がっていた。
暑さにやられたのだろう。
川岸には、朝の散歩をしている人々が十数人いたけれど、
その人たちは、その死体を何事もないかのように踏みしめ歩いていた。
目を凝らさなければ分からないほど小さな死体とはいえ、
虫の死骸程度では人間の心は動かないということなのだろうか。
他者の屍を踏みしめ生きていく人々。
人間が生きるために、いったいどれほど多くの生物を犠牲にしているのだろう。
例えば、食事ひとつとってみても、
人間が日々の食事をするために、いったいどれほど多くの
牛や豚、鶏、魚が殺されてきたのだろう。
別に私は懐古主義者でも菜食主義者でも環境テロリストでもありませんが。
生きるためには犠牲がつきものなのだと改めて実感した。