NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が終わりました。
最終回の本能寺の変に向けて大きく盛り上がり、最後の数回は本当に食い入るように、登場人物の一言一言のセリフの意味を必死に考えながら見つめていました。
それだけ濃密なドラマだったと思います。
長谷川博己(明智光秀)、染谷将太(織田信長)ほかの迫真の演技も実に見応えがありました。
明智光秀の人物像や戦国時代~江戸時代の日本史の流れについて一石を投じた刺激的で魅力的な大河だったと思います。
終わってから、麒麟がくるについてブログが書きたくなり、ゆかりの地の写真があったら使おうと思って探したら、プライベートや出張ついでを含めて結構ありました。
↓例えば、2018年に乗換駅として訪れた福知山ではこんな写真を撮っていました。
今回は、明智光秀と「麒麟がくる」のゆかりの地を訪ねながら、ドラマと戦国時代末期について自由気ままに振り返ってみたいと思います。
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最初は、光秀が生まれたとされる美濃=岐阜県です。
しばらく前に、命のヴィザ・杉原千畝記念館のことを書きましたが、そのときに降り立ったのが、この名鉄可児線・明智駅です。↓
前回のブログを書いた時は、明智光秀の生誕地は明知鉄道の終点・明智駅の近くと思っていましたが、改めて調べると、私の降り立ったこの明智駅近辺の方が生誕地の有力候補のようです。
この明智駅は岐阜県可児市にあり、近くには明智城跡があります。明知鉄道の明智駅は岐阜県恵那市にあり、近くには土岐明智城多羅砦があります。両方に生誕地伝説があり、両方に「明智光秀の産湯の井戸」があります。
やはり光秀の前半生はミステリアスなんですね。
今回はこの両方の地に「大河ドラマ館」ができたそうです。
ドラマの最初の頃、光秀が若い時頃は、衣装がやけに派手な原色でしたね。改めて総集編を観たら、なかなか新鮮でした。
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次は同じ美濃でも岐阜市です。
史実かどうかははっきりしませんが、ドラマでは光秀は美濃の実質支配者・斎藤道三に仕えました。
斎藤道三の居城・稲葉山城の城下町・井ノ口が今の岐阜市です。
その後、織田信長が斎藤氏を破ってこの地に入った時、岐阜と名前を変え、稲葉山城を破却して岐阜城を作ったそうです。
といったいきさつで、JR岐阜駅前にはこんな黄金の像↓が。
出張の時に目に入った織田信長の黄金の像です。
ウィーンのヨハン・シュトラウス2世像みたいに金色に輝いています。
信長というと尾張のイメージですが、美濃にこんなすごい像が立っているとは意外でした。
手には鉄砲を持っています。
でも、尾張出身の信長がなぜ本拠地を美濃に変えたのでしょうか。
ドラマで斎藤道三は、「美濃には海がないが尾張にはある」と羨ましがっていたのに、方向が逆です。
上洛のため、少しでも京に近い場所にいたかったのかな。
岐阜市にも当然大河ドラマ館があり、岐阜県は3つのドラマ館で地域振興を図ったようです。
コロナで客足が遠のいたのは残念ですが、光秀の実直なイメージと、平和な世のために尽くした役割が描かれたのは今後のためにもプラスだったと思います。
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光秀は、斎藤道三が息子に殺された後、美濃を離れて越前に移り、将軍・足利義昭に仕え、信長とともに上洛します。
京といえば天皇。天皇のいた御所の壁です。↓
戦国時代、天皇の権威は地に落ち、御所の壁も修理できなかったのを信長が修理した、という話がドラマにもありましたね。
↓御所の中心、紫宸殿です。この建物は江戸時代のものですが、御所を今の規模にしたのは信長・秀吉だそうです。
今回のドラマでは、戦国時代における朝廷の様子や武将たちとの関係が丁寧に描かれており、勉強になりました。
本能寺の変の裏には、朝廷や室町幕府との関係でいろいろな動きがあったというのは実にスリリングです。
↓紫宸殿わきの「蹴鞠(けまり)の庭」。
ドラマ最終回で、関白近衛前久が蹴鞠の際に光秀の盟友・細川藤孝に「信長と光秀のどちらに着く?」と聞いて藤孝が明言を避けたのは印象的でした。
本能寺の変の後、藤孝が光秀に加勢しなかったことで細川家は存続し、熊本の大大名となりました。光秀の娘・たま(細川ガラシャ)を通じて光秀の血が後世に引き継がれたのは、歴史の女神のご判断だったのでしょうか。
この「蹴鞠の庭」は、歴史上数々の政治的な雑談が交わされた社交の場だったのかもしれませんね。
光秀を破り天下人となった豊臣秀吉は、近衛前久の猶子(養子)となって関白になりました。戦国の世でも朝廷の権威が大きかったことをうかがわせます。
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光秀は、比叡山の焼き討ちで手柄を立て、近江(滋賀県)の坂本で城持ち大名になります。
坂本には行ったことがありませんが、近くの滋賀県大津には行ったことがあります。
↓大津から望む琵琶湖。大津は琵琶湖の尻尾の突端近くにあり、写真の左岸方向に坂本城跡があります。
写真の右岸方向にずっと行くと、信長の安土城に着きます。両方とも琵琶湖に面した城だったんですね。
安土城跡は是非とも行ってみたい場所です。
本能寺の変の後、安土城から坂本城に向かった明智左馬之助秀満(演・間宮祥太朗)がここ大津で敵と遭遇し、坂本城まで馬で湖水を渡ったという伝説もあるようです。
京阪石山坂本線の電車が通りかかりました。これに乗ると、坂本城跡の方に連れていってくれます。
1571年に光秀が築城した坂本城は、その後に築かれた信長の安土城に次ぐ大規模で勇壮な城だったそうです。
しかし、1582年の本能寺の変~山崎の戦いの後、秀吉勢に囲まれた左馬之助秀満が火を放ち焼失。
築城から焼失まで11年間~長いような短いような光秀活躍の期間です。
その後、丹羽長秀が再建しましたが、1586年に秀吉は坂本城を廃城にし、大津城を築かせたそうです。↓
坂本城跡の発掘調査では、焼土層の上に整地された跡があり、焼失~再建という歴史の流れを裏付けているそうです。
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目を大和(奈良県)に移しましょう。
大和にもいくつかの「麒麟ゆかりの地」があります。
↓奈良市の興福寺です。ここは、将軍になる前の足利義昭(演・滝藤賢一)が僧「覚慶」として勤め、相当高い地位まで登ったそうです。
信長に擁立されて上洛し、室町幕府第15代将軍になりましたが、その後信長と対立して京から追放されました。
本能寺の変の後、秀吉は1585年に関白になりますが、義昭は1588年まで将軍でした。
将軍を辞した後は秀吉から山城国に1万石の領地をもらい、秀吉の茶飲み友達として丁重に扱われたそうです。
義昭が秀吉の茶飲み友達?…光秀の運命がより一層悲劇的あるいは崇高に見えてきます。
↓興福寺の五重塔。ここで一生御仏に仕えるはずだった義昭の運命も、戦国の嵐に大きく翻弄されたのですね。
なお、義昭が京を追われたのち滞在した備後(広島県)の鞆(とも)は、ドラマにも登場しました(義昭は鯛を釣っていましたね)。
鞆は、1336年に足利尊氏が光厳天皇から新田義貞追討の院宣を受けた場所でもあり、いわば室町幕府の最初と最後に立ち会った場所と言えます。
余談ですが、私は以前から、鞆(鞆の浦)に行きたいと思っていました。
幕末の話ですが、鞆の浦は、坂本龍馬の海援隊が伊予大洲藩から借りた「いろは丸」が紀州藩の船と衝突し沈没した場所です。
鞆で行われた交渉で龍馬は、万国公法を盾に紀州藩に賠償を認めさせ、「日本初の海難審判」とも言われています。日本の近代化の一歩です。
室町幕府との関係を知り、ますます鞆に行きたくなりました。今でいう広島県福山市です。
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話がいつの間にか備後に移ってしまいました。大和に戻りましょう。
大和といえば、ドラマで光秀との深いつながりが描かれた松永久秀(演・吉田剛太郎)の領地です。
松永久秀は、信長が義昭を擁立して上洛するのを助け、信長の下で大和を平定していきますが、最後は信長に反旗を翻し、信貴山城で壮絶な最期を遂げます。
その久秀が、信長の上洛の1年ほど前に大暴れしたのが「東大寺大仏殿の戦い」です。
↓現在の東大寺大仏殿。
その頃の大和は、久秀のほか、その後光秀の部下となり最後は見放す筒井順慶などが割拠しており、久秀グループと順慶グループが大仏殿で激突、大仏殿は焼失し、大仏の首は落ちました。1567年のことです。
大仏の頭が修復されたのは1691年、大仏殿が再建されたのが1709年ですから、百数十年を要し、戦国時代の戦禍からの復旧がいかに大変だったかが分かります。
そのとき再建されたのが今の大仏であり大仏殿です。
久秀が信長に攻められて自害した信貴山城は、ちょうど大阪府と奈良県の県境に位置しています。
大阪に勤めていた時、北河内の枚方市に住んでいて、真南の方向にある生駒山や信貴山に行ってみたなあと思いながら行けなかったことを思い出しました。
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「麒麟がくる」には大阪府の堺も登場しました。中世の貿易港・自治都市ですね。
以前、堺に史跡はないかと調べたのですが、中世自治都市の跡はあまり見当たりませんでした。
↓史跡らしいのは、「幕末の堺旧港」。但し、中世の貿易港は秀吉の時代に使えなくなったそうですので、こことは別の場所なのでしょう。
中世堺の市街地も大坂夏の陣で焼き払われたそうですので、当時の面影はなさそうです。
ドラマでは、若き光秀が道三の指示で鉄砲を買い付けに堺に赴き、松永久秀と出会ったのが大きな流れのスタートでした。
信長が堺の自治の中心である豪商・今井宗久(演・陣内孝則)を取り込んで支配を開始、秀吉も支配を続けたそうですが、秀吉没後の大坂の陣で堺は徳川側に立ったため、豊臣方に火をつけられたそうです。
↓旧堺港には、幕末に港湾警備の土佐藩士がフランス軍艦の兵士を殺傷した事件、尊王攘夷派の「天誅組」が上陸した件の記念碑が立っていました。中世物は見当たりませんでした。
江戸時代に自治は再開せず、貿易も長崎等に集約されて、堺のかつての輝きは失われてしまったのかもしれません。
でも、当時をしのぶ記念館のようなものがあるといいですね。あるのかな?
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では、ドラマ後半、光秀の丹波攻めで有名な丹波に移りましょう。
恥ずかしながら、丹波とはどのあたりか、よく知りませんでした。
調べてみると、京都府西部の亀岡市や福知山市、兵庫県東部の丹波市や丹波篠山市あたりだそうです。昔で言うと山陰道、今で言うとJR山陰本線沿線です。
JR山陰本線で但馬(兵庫県)の豊岡まで何度か出張に行ったことがあります。その時通ったのが丹波だったんだ!
↓山陰本線の出発点は京都駅31番線。特急きのさきです。
京都から特急で20分くらいで亀岡に着きます。
亀岡は江戸時代まで亀山と呼ばれており、光秀が丹波を治めた拠点の亀山城があります。
光秀が本能寺に向かったのも亀山城からでした。
でも、特急きのさきに乗っている時はそんなことは全く知らず、写真も撮りませんでした。
そこからさらに1時間で福知山。車窓に福知山城が映り、その威容に思わずスマホで撮りました。↓
福知山は2018年秋に乗り換えで降り立っただけですが、既に「麒麟がくる」の横断幕が出されており、光秀人気の強さを物語っています。↓
光秀の亀山城は1578年、福知山城は1579年の築城ですから、1582年の本能寺の変まで、治世は3~4年に過ぎません。
それでも、光秀の善政の逸話が残るなど地元で愛されているのは、いい領主だったからかもしれませんね。
両方に大河ドラマ館ができていたようです。
↓駅に飾られていた福知山城天守閣鯱瓦のレプリカ。
丹波経営もそこそこに、本能寺の変で信長を討った光秀。
今回のドラマでは、道三に「大きな国を作れ」と言われて信長とともに戦のない世界を求めてきた光秀が、変わっていく信長を見かねて事に及ぶ経緯が丁寧に描かれていました。
松永久秀、将軍足利義昭、正親町天皇、徳川家康など、多くの人が信長の非道を訴えつつ、誰も手を下さない(あるいは下せない)中で光秀が立ち上がるというのは、なかなか説得力のあるストーリーでした。
生真面目で世渡り下手な人が多くの人の思いを背負って正義感で立ち上がり、結局損な役回りを一手に引き受ける…そう書いてしまうとそれまでですが、理想や正義を貫く骨太の物語になっていたと思います。
今でもありそうな話ですね。
どこまで史実かを問うのは野暮ですが、大きな歴史の流れに沿いながら説得力あるストーリーを組み立てたのは素晴らしかったと思います。
↓夕闇迫る福知山の駅前。
信長が天下統一を進めたものの暴走して光秀が阻止、秀吉が引き継いでさらに進めたが晩年は暴走し、その最期を待って家康が遂にまとめ上げた…と考えると、紆余曲折を経ながらゴールに向かってバトンが引き継がれていったのかなと思います。
↓光秀が実は名君だった、といったチラシが多くみられる福知山駅の観光案内所。
↓駅前にあった福知山踊りの像です。
光秀が福知山城を築城した作業の時に地元の人たちが歌い始めたものと言われており、「今が桔梗の花ざかり」といった明智の桔梗紋をうたった歌詞もあるそうです。
大河ドラマの最後の「麒麟がくる紀行」でも取り上げられていましたね。
たった3年の統治なのに地元に根付き愛されているのは驚きです。
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出張で山陰方面に行って、翌日岡山で仕事があったことがありました。
山陰本線から枝分かれした播但線で姫路まで南下した際、ライトアップされた姫路城が目に入りました。↓
天下の名城で世界遺産、別名白鷺城です。
ここは、秀吉の毛利攻めの本拠地でした。備中高松城(岡山市)で水攻めをしていた秀吉が本能寺の変の報に接し、和平を結んで戻ってきて、山崎の戦いに向けて最後の準備をしたところです。
本能寺の変が6月2日、秀吉が京都に戻り山崎の戦いが起きたのが6月13日。この「中国大返し」のスピードが秀吉を天下人に押し上げたことになります。
ドラマでは、山崎の戦いの後の光秀については語られず、生存説を思わせるエンディングでした。
制作陣の思い入れが強過ぎて、光秀を死なせるには忍びなかったのでしょうか。
個人的には、ドラマの中で光秀が「この戦い(本能寺の変)は自分一人のものと思っている」と語ったように、本人は捨て石となる覚悟だったのだと思います。
そういう意味では、「光秀は死んだが志は受け継がれた」でもよかったのかな…という気はしました。
でも、コロナでみんなが下を向いている現在、「光秀は生き延びたかも」のシグナルで久しぶりに元気になった人も多かったようです。これはこれでよかったのかなと思います。
毎回のドラマの冒頭、テーマ曲が流れている間のタイトルバックは、山崎の戦いやその後を暗示しているようでもあり、引き込まれてしまいました。
余談ですが、大河と並行して放送された軽いノリの「光秀のスマホ」という番組では、光秀が秀吉に乗せられて本能寺の変に及び、最後は竹槍であっさり殺されてしまいます。同じNHKでも大河との対比が実に面白かったです。
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本能寺の変の時、織田家臣で最も有力だった柴田勝家は越中魚津城(富山県)で上杉勢と合戦中。魚津城を落として本拠地・北ノ庄(今の福井市)に戻りますが、背後の上杉勢の動きもあって秀吉に後れをとりました。
その北ノ庄が名前を変えた福井市。福井駅です。↓
今や恐竜の本場ですね。
後れをとった勝家は、その後、賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れ、ここ北ノ庄城で信長の妹・お市の方とともに自害します。
その後、関ヶ原の戦いで手柄を立てた結城秀康(家康の次男)がここに入り、新たな北ノ庄城を築きます。今の福井城です。↓
こうして世の中は徳川の時代に移っていきます。
今、福井城跡には福井県庁が建っています。
越前(福井県)では、福井市には行きましたが、若き光秀が逗留していたとされる朝倉氏の一乗谷にはまだ行ったことがありません。
朝倉時代の街並みが再建されているそうで、コロナ後の楽しみにしています。
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最後は、「麒麟がくる」で光秀から後を託された徳川家康のゆかりの地です。
↓三河(愛知県)の岡崎城。家康はいろいろな大名に人質に取られたり隷属したりと、苦労し続けました。
本能寺の変の時は、武田氏を滅ぼした後の一休みで堺見物をしており、変を聞いて慌てて三河に帰ってきました(神君伊賀越え)。
光秀と家康がそんなに仲が良かったのかは分かりませんが、光秀は元幕臣でもあり、天才肌の信長や秀吉よりは常識的な家康に近そうなイメージはありますね。
↓岡崎駅前の若き家康像。
そういえば、徳川家康が現在の大河ドラマ「青天を衝け」の冒頭に登場して驚かされました。
そこで明治維新について「徳川が明治政府に倒されたというほど単純じゃない」と語っていたのは、確かにそうだと思います。
新政府や近代日本では渋沢栄一など幕臣が多く活躍し、家康(徳川家)が引き継いだバトンが明治政府に引き継がれた側面もある、ということを言っていたのかなと思いました。
ここでも、単に英雄伝としての歴史ではなく、「引き継がれていく歴史のバトン」という視点で見ていくと、「麒麟がくる」と同様、実に面白いなと思いました。
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最後に、大河ドラマに関する余談を一つ。
「麒麟がくる」は明智光秀と本能寺の変について目からウロコのような新しい視点を与えてくれましたが、私にとってもう一つ、目からウロコの大河がありました。
「平清盛」です。視聴率は低かったようですが。
日本史を勉強していて不思議だったのが、平治の乱(1159~60年)で源平の戦いに勝った平清盛が源氏の当主の若き源頼朝を殺さなかったのはなぜか?ということです。
一般には、頼朝は清盛の継母・池禅尼の命乞いにより処刑を免れ、伊豆に流されたとされています。でも、清盛ってそんな甘いのかな?
静岡県の伊豆・蛭ヶ小島(伊豆の国市)の頼朝流刑地です。↓
頼朝はここで北条政子と出会い、挙兵して最後は平氏を倒すことになります。
池禅尼が余計なことを言うから、後に平氏は滅ぼされた…と思っていたのですが、この大河での描き方は、「清盛が『武士の世』を作るための後継者として頼朝を生かした」というものだったと思います。
確かに、公家化し衰える平氏に代わって武士の世を築き上げたのは源氏でした。
清盛がこれを予感していたのかどうかは分かりませんが、ここでも歴史のバトンが引き継がれたのかもしれません。
↓平家滅亡の地、山口県の壇之浦に立つ源平合戦像と関門橋。
清盛の妻・徳子は、清盛の孫・幼少の安徳天皇を抱いて壇ノ浦に身を投げます。
↓壇ノ浦の傍らにある安徳天皇陵。
平家亡き後、その「武士の世」のバトンは明智光秀を含む多くの人々を経て700年近くにわたり江戸幕府にまで引き継がれたと言えるでしょう。
一方、戦国時代に「麒麟がくる平和な世」を目指したバトンが信長、光秀、秀吉、家康と引き継がれたとすると、そのバトンは武士でない明治の世に引き継がれたのかもしれない…なかなか面白いですね。
でも、その後の戦争はどう考えたらいい?…難しいので次のテーマとしましょう。
歴史の解釈は様々ですが、想像力を羽ばたかせる頭の中の空想歴史紀行、それを現代の風景で観る実際の歴史紀行…両方ともとてもスリリングです!
【今日のBGM】
ミュージカル「マリー・アントワネット」
シアターオーブ(渋谷)
・ブログ本文は日本史の本能寺の変でしたが、こちらは世界史のフランス革命です。
・遠藤周作原作で日本発のミュージカル「マリー・アントワネット」を妻とともに観に行きました。
・場所は、最近できた高層ビル「渋谷ヒカリエ」の上の方にある「シアターオーブ」。渋谷駅直結です。
・マリー・アントワネットはハプスブルク家のマリア・テレジアの娘で、フランスのルイ16世に嫁ぎ、1793年にフランス革命でギロチンの露と消えました。
・日本で言うと江戸時代中期。その後、フランスは産業革命で力をつけ、幕末の江戸幕府に開国を迫ります。幕臣・渋沢栄一はそのフランスに渡航して日本の資本主義を育成する決意をするのです。
・優雅な王室や貴族の生活、それを象徴する優雅なメロディ。民衆の激しい怒りと暴力、それを象徴する激しいリズムとメロディ。両方が絡んだり不協和音となったりしながら歴史が進んでいきます。
・ところで、王侯社会から民衆社会に引き継がれたバトンというのはあるんでしょうか…?
・革命で王政まで倒してしまったフランスと異なり、日本は天皇制が継続していたから、武士の世が混乱しても終わっても、バトンをつないでいけたのでしょうか…?
・これも難しいので次のテーマにしましょう。
・美しい音楽や衣装、舞台装置を楽しみながら歴史を考えるこうしたミュージカルは、豊かな心の糧だと思います。
・万全のコロナ対策をしつつ鑑賞しました。
・録画すれば好きなように観ることのできるTV、劇場空間に身も心もどっぷり浸るミュージカル、どちらもいいですね!