楽器は体の一部のようなものだ。


空気を思い切り吸い込めば、酸素が血管を通して体中を巡るように、

音符という記号が作り出すメロディーが体の中に満ちた時、

それを吐き出すための器官が楽器だ。


呼吸をするように、

言葉を話すように、

歌うように、

笑うように、

叫ぶように、

感じるまま音に乗せて、

俺の音楽になる。


曲を奏でるとき、頭の中のイメージを膨らませて思う通りの音を出せた時

体は音に溶けて音楽の一部になる。

その心地よさは誰かと愛を交わす快感に似ているかもしれない。

それぞれが想いをこめた音が交じり合い絡み合ってハーモニーが生まれ、

他の誰とも作りだせない音楽になる。

そんな音楽を、いつか作り出せたら、いつもそんな思いでいた。

自分の音が嫌いなわけじゃない。

それなりに満足いく演奏だってしてきている。

けれど、心のどこかにまだ足りない、何かを求めていた。


あの日、黄昏時、静かにたたずむチャンミンを見たとき、

心の中にある音が浮かんだ。

それは言葉でも、楽器でもうまく表現できないけれど、

きっといつか捕まえてやると思った。

そして、彼の音を聴きたいと思ったんだ。

偶然にも彼が祖父の知り合いだとわかり、俺は神に感謝した。


チャンミンが祖父の楽器屋に遊びに来るようになり、

2人で過ごす時間が増えていく。

2人の距離は縮んだけれど、俺はまだあの日浮かんだ音を捕まえることができない。


大学も歳も違うけれど、チャンミンと過ごす穏やかな時間が俺は気に入っていた。

部屋で音楽を聴きながら取りとめのない話をすることもあれば、

楽器屋の店番をしながら、楽器を吹いて過ごすこともあった。


祖父もチャンミンを気に入っていて、孫のように接していたし、

俺も弟ができたようで、ときどきチャンミンが甘えてくるのが可愛かった。

そんなとき、祖父は目を細めて懐かしそうに俺たちを見守っていた。

祖父のそんな表情は見たことがなかった。

祖父と2人きりの生活に不満はなかったけれど、チャンミンがくれた温もりが心地よかった。


ある日、大学から帰ると、祖父がソファでうたた寝をしていた。

風邪を引くといけないと思い、毛布をかけようとすると、祖父の目から一筋の涙が流れ、

「ヒョン」とつぶやいた。

祖父には兄はいない。

兄弟のように仲が良かった人ならチャンミンのお祖父さんだ。

もしかしたら祖父は…。

まだチャンミンに出会う前、祖父とお酒を飲んだときの話を思い出した。



ユノや、お前の出す音にはお前のすべてをかけて真摯に音楽を作るんだ。

お前の感じること、思うこと、経験することすべてがお前の音を作る。

そして、お前が出会うたくさんの人との音の調和がお前を幸せにも不幸にもするだろう。

人生の中で最上の幸せな音楽を作れる機会はそんなに多くは訪れない。

わしは、そんな最良の音を永遠に失ってしまった。

この楽器も魂の半身をなくしてしまった。

たとえこの世で結ばれなくても音楽で結ばれていたら幸せだったのだが

それも遠い記憶の中でしかない。

お前の音が魂の半身を見つけることができるといいがな。


お祖父さんはずっと幸せじゃなかったの?


幸せだったさ。

お前の祖母さんと出会ってお前の父親が生まれ、

お前の母親と出会ってお前が生まれた。

お前の両親も音楽を愛していたから、いつも幸せだった。


だってこの世で結ばれないって…。


昔は今の時代とは違う。

普通に家庭を持つことが一番の幸福だったが、

こうして歳をとってしまえば、他の幸せを見つけることもある。

追い求めていた音楽は平凡な幸せの対極にあったかもしれないからな。


お祖父さん、他に好きな女性がいたの?


いや。そんな女性はいなかったよ。


それじゃあ、どうしてそんなに寂しそうなの?


音楽がな、欲しい音に手が届きそうで届かないからかな。

たったひととき、たしかにこの手に触れたんだが…もう永遠に届かん。


ほしい音か…俺にも見つけられるかな。


きっとお前だけの音を見つけなさい。

見つけたら絶対に離すんじゃない。

それは簡単に失ってしまうものだから。



祖父は本当に寂しそうにつぶやいた。


そのときは輪郭もわからなかったけれど、

ある日持ち込まれた古いアルトサックスを懐かしそうに眺める祖父の目は潤んでいなかったか、

チャンミンが来るようになってから、祖父の視線の先に誰が映っていたのか、

なんとなくわかったような気がした。

そして、俺も、たぶん見つけた。

お祖父さん、俺はあいつを、チャンミンを捕まえる。

チャンミンが俺を受け入れてくれたらきっと離さないよ。

俺たちの音を、いつかきっと聴かせてあげる。

お祖父さんが焦がれても手に入れられなかった音楽を、きっと手に入れてみせるよ。



to be continued ...









































(画像はお借りしました)