それはどこまでも真っ暗な夜、空には月もでていない夜だった。
なんだか寝苦しくて、真夜中に部屋を抜け出した僕は、
どこに行くわけでもなく、ただ喉の渇きをいやすために店に入る。
馴染みの店はとっくに閉まっている時間だから、適当に歩いて適当に目についた店だ。
通りから離れたその店は看板もなく、ただ地下への階段が薄明かりで照らされていた。
狭い店だと思っていたら、案外店内は広く、しかし照明が暗くて周りがよく見えない。
普段ならちょっと敬遠してしまいそうな雰囲気だが、何かに引かれるように店の奥まで進み、
壁際の目立たない場所にあるスツールに腰を落ち着けた。
まわりのテーブルはそこそこ客で埋まっていて、煙草の煙でうっすらと白くけむり、
カウンター横にあるピアノからは気だるいジャズが流れていた。
無言で近づいてきたボーイにビールを頼むと、しばらくピアノの音に耳を傾けていた。
誰が弾いているのかこの席からは見えないけれど、なかなかの弾き手だといえるようだ。
曲調は気だるいけれど、その中に優しい調べが混じり、目を閉じしばし聞き入った。
いつの間にか目の前にはビールが運ばれてきていたので喉を潤しながら、
指先でトントンとリズムを取っていた。
音楽はどんなジャンルでも好き嫌いしないで一通り聞くようにしている。
苦手な中にも、新たな発見があったり、しばらくして好きになったりすることがあり、
いつも宝探しのようにワクワクした気持ちで音楽にふれるようにしている。
ジャズはそんなに詳しくないけれど、ピアノの曲が好きだ。
ピアノは少し弾けるけれど、ジャズの独特のタッチは弾き手の個性が出やすく、
真面目と言われる僕には思うような音が出せなくている。
この人の音は、うん、好きだ。
知り合いに会いそうもないし、適当に放っておかれる気楽な店で好みの音に出会えた。
いつの間にかビールよりもピアノの方がよくなってきているようだ。
渇きが癒されたからだろうかとふっと笑うと、後ろからそっと肩をたたかれた。
「ねえ、きみ」
「はい?なんでしょうか」
振りかえると、暗くて顔までははっきり見えないが長身の男が立っていた。
「ピアノ、好きなの?」
「いえ、そういうわけでは…」
「でもさっきからずっと楽しそうに、その指で拍子をとっていたでしょう?」
こんな薄暗い店内で他人に見られていたとは思わなかった。
自分のいたずらを見咎められたような、少々気まずい思いでうつむいていると、
その男は優しく僕の腕を取ると、そっと立たせた。
「あの?」
男の意図が分からず戸惑っていると、そっと唇に人差し指をあてられ、質問を封じられる。
「いいから、おいで。大丈夫だよ」
何を言いたいのだろうと不思議に思いながらも、なぜか男の腕を拒むことができない。
男に腕を引かれるまま、店の奥のピアノの近くまで連れて行かれる。
「彼を紹介しようか」
「いいえ、そんな、結構です」
男は僕がピアノを弾く側の人間だと思ったのだろうか。
ピアノの傍はやっぱり暗くて、手元にあるキャンドルだけが鍵盤をてらしていた。
ピアノを弾く「彼」は、そんなことも関係ないかのように自在に鍵盤の上に指を踊らせていた。
「きれいだ」
思わず、彼の指に見惚れてつぶやくと、男は僕の手を取って唇を近づけた。
「君の指だってきれいだ」
なぜ僕が彼の指をきれいだと思ったのがわかったのだろう。
不思議に思って男の顔を見上げると、すっと腰を抱かれてパーテーションの陰に引き込まれ、
もう一方の手で目を優しくふさがれた。
男に腰を抱かれるというだけでかなりの異常事態で、さらに目をふさがれているなんて
いつもの僕ならば絶対に許すはずがないのに、なぜか男の手を拒むことができない。
「いい子だ」
されるがままの僕にそうささやくと、男は僕の唇にやさしく触れてきた。
目をふさいでいた手は優しく頬や耳を愛撫し、僕はうっとりと眼を閉じていた。
どうしてか抵抗できないのだ。
「君はどこもかしこもきれいだ。この瞳も、唇も、頬も、そして首筋も」
ひとつひとつに優しく唇を押しあて、そのたびに僕の体が熱を帯びていく。
小さく喘いで開いた口から舌が忍び込み、僕の口腔の奥深くまでさしこまれると、
膝から力がぬけそうになり、男の胸にすがりついてしまう。
「感じやすいんだね。可愛いよ」
男の甘い声に溶かされ、されるがままの僕、一体どうしてしまったんだろう。
男に促されるままにソファに腰掛け、再び上から覆いかぶさってきた男の唇を受け止める。
絡まりあう舌から伝う唾液がピチャピチャと音をたてはじめると、
合わさった唇の合間から漏れる声が止められない。
「あぁ…」
「このまま私のものになるか?」
耳元で低く囁かれても返事もできないほど感じている。
どこの誰かもわからない男に口の中を侵され、すべてを委ねてしまっているなんて。
「でも、今夜はダメなんだ。もうお腹がいっぱいなんだよ」
男は意味のわからにことをつぶやく。
「何が?」
やっとのことで聞いても妖しく微笑むだけで何も応えてはくれない。
「でも明日にはきっと…またここにおいで。もう君は私が欲しくてたまらなくなるよ」
そう囁くと、首筋に舌を這わせ、耳の下あたりをきつく吸われた。
舌が這うところからまるでアルコールがまわるように、体の熱が中心に集まり、
甘い疼きが広がっていく。
歯をたてられた瞬間、僕は達してしまっていた。
「これはそう、明日の約束だよ」
男の囁きを聞きながら、僕はだんだん意識が遠のいていった。
「お客さん、お客さん、大丈夫ですか?」
誰かに揺り起こされ、僕はハッと目を覚ました。
「あ、あの?僕はどうして…」
「こちらでいつの間にか眠っていたんですよ。具合が悪いんですか?」
「いいえ、そうではないです。ご迷惑かけたみたいでごめんなさい」
「あー、よかった。ここは店の中でもちょうど死角になってるから誰もきづかないんですよ」
「あの、お店の方ですか?」
「いや、俺はアルバイトでピアノを弾いてるんです」
「あのジャズ、あなただったんですか。とてもステキな演奏でした。プロの方ですか?」
「え?いや恥ずかしいな。そんなんじゃないですよ。ただ好きでやってるだけで」
「でも僕、あなたの音、好きです」
つい勢いで余計なことを言ってしまったと恥ずかしくなったが、彼は微笑んで、
「ずっと楽しそうに聞いてくれてたでしょ?本当は気になってたんだ。
指でトントンって楽しそうでうれしかった。あ、俺はユノっていうんだ。君は?」
「チャンミンです」
「チャンミンくんは音楽やってる人なの?」
「ええまあ、趣味で少し…あ、呼び捨てでいいです。ユノさんの方が年上でしょ?」
「チャンミンも呼び捨てにしてよ」
「じゃあ、ユノ、ピアノ弾いてください。もっと聞きたい」
「いいけど…もう店終わりだからさ、よかったら俺のうちに来ないか?」
「え?今から?」
「いきなりじゃイヤか。でももう今日はおしまいだから家で弾いてあげるよ」
まったく今夜は何て日なんだ。
初めて入った店で、初めて会った男にいいようにされて、今度は違う男の家に行くなんて
一体僕はどうしてしまったんだろう。
でもユノのキラキラした瞳をみつめていると、なんだか彼のことをもっと知りたいとおもったし、
何よりも彼のピアノをもっと聞きたかったんだ。
店からの帰り道、どうということのない話をしながら連れて行かれたユノの家というのは、
町はずれの教会だった。
to be continued ...
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1話で完結できませんでした。
もうちょっと軽ーく終わらせようと思ったんですけれどね。(^^ゞ
ちょっとこのところバタバタしててなかなかPCに迎えないのですけれど、
頑張ってさくさく書いていきたいと思いますのでもう少しおつきあいくださいね。
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